今の子どもたちの中には、「かくれんぼ」ができないという子もいるそうです。
他にも「この指とまれ!」ができない子、「ブランコ」がこげない子、などかつての感覚からは信じられないような状況が出現しているそうです。
かつてそういった遊びをしてきた大人たちからは「今の子供は」といった感想が出そうですが、これは社会全体が変化してきたためだということです。
そういった状況を、大学で教育学を専攻し、さらに子供や親子を集めて遊び方というものを提示するという研究も実施してきたという著者が分析し、さらに遊び方伝授のプログラム実施について書かれています。
「かくれんぼができない子」とはどういう子か。
隠れてもわざと見つかるように、物音を立てて自分の居場所を鬼に教えてしまうそうです。
また、一人では隠れずに何人かで一緒に居るためにすぐに見つかってしまいます。
実は「かくれんぼ」というのは非常に怖い側面を持った遊びです。
見つからないためには近づくのが難しい場所に隠れなければならず、危険箇所を選ぶ場合もあります。
また、隠れていて見つからないままでいたら、遊びはいつの間にか終わってしまい、自分だけ取り残されたという怖さもあります。
これは「迷子の経験」「孤独の経験」「流刑の経験」「彷徨の経験」といったものを疑似体験させる遊びだったからだそうです。
現代の社会というのは、こういった孤独が実体験となっている時代かもしれません。
したがって、遊んでいてもそれが怖くなりかくれんぼを続けられなくなっているということなんでしょう。
「この指とまれ」とは何か
かつては鬼ごっこなどをしようという時に仲間を集めようとして「この指とまれ!」ということがありました。
しかし最近はなかなかその場面が見られないようです。
不特定多数の集団から、遊びの種類によって希望者を募ると言う遊びの形態が見られなくなってきました。
現在では、いつも一緒にいる友達の集団の中で、次に何をやって遊ぶかを決めるだけです。
そこでは「この指とまれ!」は必要ありません。
この指とまれ!といって集めた集団は「機能的集団」です。一方、自分では選択することができない家族や地域といったものは「基礎的集団」であり、なかなか抜けることもできない「帰属集団」です。
帰属集団は「私的仲間」、機能的集団は「公共的仲間」ということもできますが、現代の子どもたちは「公共的仲間」を作り出して遊ぶということができなくなったようです。
後半では著者たちの研究グループが、親子や子供たちを集めて行ったプログラムの状況が説明されています。
そこの事例はちょっとできすぎという感がしなくもないのですが、たしかに「自分の子供だけを構うのではなく他の子を世話する”社会的親”」の役割と言うのは重要でしょうし、子供の遊びは指導するのではなく自発的にやらせるというもの間違いないでしょう。
また「自分のことは自分でしない」というのも面白い表現と思いました。
子どもたちの家庭ではおそらく親からつねに「自分のことは自分でしなさい」と言われ続けているでしょう。
しかし、そのことが子どもたちだけの社会となった時に「相互の関係が育たない」原因ともなってしまいます。
そこで、「さ」の字を取ってしまい「自分でしない」つまり他の子供に頼むということをさせるというのです。
キャンプでの食事の場面でも「醤油を取ってくれ」と言えない子供が多いようです。
醤油が欲しい場面でも家庭での「自分でしなさい」のしつけのために、席を立って自分で取りに行くようです。それが他の子供との会話を妨げることにもなります。
何かあれば他の子供に頼むということは、必要なことだということでした。