イスラム教にはスンニー派とシーア派があり、イランがシーア派。相互にテロをしたりしている。といった状況についてや、「シーア」とは党派という意味であり、最初は「アリの党派」と言うように呼ばれていたのが「シーア」と略されて呼ばれるようになった。つまり「シーア派」とは「党派派」だといったどうでもいい知識は知っていましたが、実際のシーア派はどのようなものかと言うことは詳細には分かりませんでした。
この本はシーア派の歴史的な経緯、近代から現代の状況、構造や組織等々、非常に詳しいシーア派についての集大成とも言えるものです。それが入門書のような中公新書で読めると言うのはお得感で一杯でした。
イスラム教でもスンナ派(この本では全ての用語が原語に忠実に表記されていますので、スンニー派ではなくスンナ派)では宗教界の組織というものが強固ではないのですが、シーア派は非常に確固とした位階制度ができています。
イランがホメイニー体制であった頃はその位階制度と政治体制が調和されており強固だったのですが、その後はズレができてしまいました。
ウラマー(イスラームの学者・識者たち)の位階制のトップは「アーヤトッラー・ウズマー」(神の最高の徴)であり、これは「マルジャア・アッ=タクリード」と呼ばれます。
次の位階は 「アーヤトッラー」ついで「フッジャ・アル=イスラーム・ア・ワル・ムスリミーン」、「フッジャ・アル・イスラーム」と続き、ここまでがムジュタヒドと呼ばれ、法解釈の有資格者とされています。
その下がムカリッド(追従者)であり、スイカ・アル=イスラーム、最下位はタラベと呼ばれる宗教学院生です。
イラン革命で「イスラーム法学者の統治」を実現させた、ホメイニーはこの最高権威のマルジャア・アッ=タクリードの一人でした。
このイスラム教最高権威が政治的にも最高位となるということで、イスラム全体の統一を図ったということです。
さらにイランには革命当時に15万人ほどのウラマーが居ました。彼らを政治的な中間統治者とすることで革命政府運営をスムーズにする狙いもあったのです。
しかし、マルジャア・アッ=タクリードはイランで一人しか居ないわけではありませんでした。
ホメイニー以外にもマルジャア・アッ=タクリードは数人居たのですが、革命前は独立した権威となっており、イスラーム法解釈で相違があったとしてもどちらが偉いということもなく並立していたのです。
しかし、イスラームイラン革命で国の代表としてホメイニーが一人で権威となると他のマルジャア・アッ=タクリードの立場は難しくなり、公然と反対して弾圧されたり、沈黙を守ったりといった行動を取りました。
また、マルジャア・アッ=タクリードの選出というものも、革命前は確固たる方法はなく自然に合意され選出されたのですが、政治的権威も兼ねるとなるとそうも行かなくなったようで、それ自体に国家が介入するということにもなったようです。
ホメイニーは1989年に死亡し、その後の最高指導者にはハーメネイーが就任するのですが、ハーメネイーは実はウラマー位階ではアーヤトッラーにも届かないフッジャ・アル=イスラームに過ぎなかったため、ハーメネイーは折衷案として世俗的最高指導者には着くものの、宗教的権威としては別にマルジャア・アッ=タクリードとしてアラーキーを就任させました。
しかし、ホメイニーの作り出したイランの体制とは大きく変わってしまったことには間違いないようで、国民が納得したかどうかも怪しいものでした。
その後、ラフサンジャーニー、ハータミーと指導者は変わりましたが、初期のイスラーム法学者の統治という理念とは大きくずれたものとなりました。
いわば「政教一致」の政体を求めたのですが、現状ではかなり異なったものとなっています。
この政教一致体制には非常に多くの問題点がありました。
宗教というものが、体制化してしまうと単なる政治的イデオロギーになってしまい、かえって宗教的な力を失ってしまうということもあります。
現代のイランの若者たちの宗教意識はまったく変質していまいました。
また、革命前にはウラマーたちは政治権力を監視して信徒の利益を守るという役割も持っていました。それが自らが政治権力となったためにそれを失ってしまいました。
本書には多くの歴史の記述もあり、それはそれで非常に興味深いものですが、省略します。
また、イランだけでなくイラクや湾岸諸国、レバノンなどにも多くのシーア派教徒が居り、スンナ派との間に問題を抱えていますが、その記述も省略します。
シーア派の問題、キリスト教のカトリックとプロテスタント、仏教での大乗小乗などと同様、かなりの大きな影響があることのようです。