その当時勤務していた熊本県の工場では、本格焼酎(乙類焼酎)の米・麦と、アルコールを割水した甲類焼酎を製造していました。
熊本県でも現在は焼酎全盛になっていますが、実は40年ほど前の私が入社した頃はまだ日本酒(清酒)を飲む人が多かったのです。
ただし、人吉市などの球磨地方だけはその当時から米焼酎ばかりでした。
私は焼酎会社に就職したので焼酎を普通に飲んでいましたが、会社外の人と付き合うことも出てくると、その人たちは焼酎などは下に見て日本酒を飲んでいるのでびっくりしたものです。
しかし、清酒製造の限界線というものがあり、普通に作っている酒造会社というのは熊本市やその隣町の城南町といったところが最南端でした。
よく知られているように、清酒製造には高温が大敵で、できるだけ冷やすことが必要なんですが、熊本も県南より南では真冬でも温度が高すぎたようです。
(ただし、水俣のすぐとなりの津奈木町に亀萬酒造というところがあり、清酒を作っていますが、ここは昔から仕込みに大量の氷を使うという特殊な醸造法によっています)
しかし、徐々に世の中の趨勢も清酒から焼酎に移るようになってきたのですが、そんなある日突然「清酒を作ってみる」という話が持ち上がりました。
この裏にはあきれるほど変な話がありました。
それまでは、会社では関東地方の工場と、神戸市東灘区の関連会社工場で清酒を作っていたのですが、その神戸の会社の工場が阪神淡路大震災で被災し操業不能となったまま廃業することとなりました。
しかし、その工場の清酒製造免許が「もったいない」というのが、熊本の工場に清酒製造を持ってこようという発想の基になったものです。
もちろん、継続的にこちらで製造しようという考えはなかったのですが、免許維持のためには年に1度一定量の清酒製造をしなければならないという規定だったため、無理やり作るぞということになったものです。
まったく、無理無駄を絵に描いたような話ですが、酒類の製造免許というものは国税庁の方針でほとんど新規に取得するということができず、一度手に入れた製造免許はなんとしても守るというのが当然視されていたので、仕方のないところでした。
ちょうどその当時は私の職務は製造課長ではなく技術サポート部門だったので、私にその調査企画の役が回ってきました。(というか、押し付けられました)
細かいことはまだ書けませんが(さすがに名誉な話ではありません・墓場まで持っていくか)さんざん苦労して1回だけ作ったものの出来は悪く、ちょっと口にする気もしないものでした。
ほろ苦いどころか、かなり苦い”酒”、いやいや”体験”でした。