爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「科学者が人間であること」中村桂子著

著者の中村桂子さんは私が大学卒業時に就職探しをしていた頃にすでに三菱化学生命科学研究所で大活躍をされていた方で、こちらの方面では有名な方でした。

その中村さんが最近取り組んでおられたのが、「生命誌」という分野だったそうです。

 

これは「生命科学」あるいは「生物化学」といった方向性とは異なり、生物を生物として扱うというもので、DNAなどの物質だけを見るものとは違うということです。

本書はこの生命誌という方向性について語られているものです。

 

 現代の科学技術を駆使する人間は「生き物であることを忘れている」ということです。

そして、この面は特に生物や生命をその研究対象とする生命科学で強く現れているというのが、元々は生命科学分野の研究者であった著者の見方です。

 

そこで、著者は大森荘蔵という哲学者の考えを紹介し、それにそってこの本を記述するとしています。

大森さんは戦後すぐに哲学者としての意見を発表しだした方ということで、近代科学というものを使った現代の世界観を見直すべきであるという主張をされたそうです。

 

ただし、その近代科学というものが17世紀のヨーロッパから起こったということで、それを否定し東洋思想に戻るという考えもありますが、中村さんはそれは取らないということです。

そこで考えたのが「生命誌」というものでした。

 

近代科学では機械化、数値化というものが特徴的だと言われますが、実はもっと特徴を表しているのが「死物化」ということだそうです。

これは、生きているもの(生物)すら粉々に分けて考えるために死物としか言えないものになってしまっており、特に生物学、生命科学では生きているものを相手にしているはずが死物として捉えているということです。

 

これを大森は別の捉え方をしています。それは「密画的見方」と「略画的見方」というものです。

基本的には近代科学はそれまでの略画的見方から密画的見方に変えていきました。その過程で生物を見るときにも死物として見るようになってしまったようです。

 

これを乗り越えるために大森が提唱したのが「重ね書き」ということです。密画の上に略画を重ねて見てみようということです。

 

このような重ね書きの考え方に近いものが見られる先達としては、宮沢賢治南方熊楠が挙げられるそうです。

 

このような重ね書きの実践が著者の進める「生命誌」にもあるということです。

いささか難解な点も多かったものですが、さらに中村さんの他の著書を調べてみる価値はありそうです。

 

科学者が人間であること (岩波新書)