著者はテレビ局の海外支局に勤め取材を重ねた後、日本で大学の講師・教授などに転身しました。
海外経験や知識が豊富ですが、日本で大学の学生に教える立場になって、彼らの知識の無さというものを知りショックを受けたそうです。
国際的に活躍する人材となるためにも、国際知識というものは必須です。
そういったものを身につける一助として、自らの海外経験を入れ込んだエッセイを食品関係の業界誌に連載したものをまとめたのがこの本です。
掲載誌からは、特に食品関係にこだわった話でなくても良いということを言われたそうですが、やはり食品に関する話を導入にしていることが多いようです。
西洋人はタコを食べないということを著者は中学で習ったそうです。
タコを英語ではデビルフィッシュと呼び、忌み嫌うのだと言われたそうで、ニューヨークとロンドンでは確かに食べる人は居なかったようです。
しかし、そこを離れてヨーロッパ各地を訪ねると、イタリアでもスペインでもギリシャでも人々は喜々としてタコを食べていました。
タコを食べている国々はどうやらカトリックの信者のようです。食べていないのはプロテスタントです。もしかしたらキリスト教の教義に関係があるのでしょうか。
これはキリスト教布教より以前の文化に関係するようです。
キリスト教が広まる以前からこれらの地方の人々はタコを食べていました。そこにキリスト教を拡大して行くにあたって、タコは聖書に書いてあるように食べるなというと布教自体が失敗する可能性もあったのではないかということです。
ただし、ユダヤ教徒はタコは食べないということが厳守されているようです。
日本でも京都では会話に洗練というものが根付いていました。
「京のぶぶづけ」という言葉がありますが、長居をした客に帰って欲しい時に「ぶぶづけいかがですか」と聞くのだそうです。それの意味が分からない田舎者はさらにバカにされるということなんですが、こういったのを洗練された会話と考える文化だったのでしょう。
しかし、このような文化は影を潜めアメリカ流のミーハー文化が席巻してしまいました。
著者によれば、日本を蘇らせるのは洗練された文化と言うものではないかということです。
日本では特に政治の分野では田舎の勢力が圧倒的に強くなっています。このような人たちは「野暮」をかえって売り物にしています。これは日本の知的状況の危機とも言えます。
選挙ともなれば地方の声を吸い上げたようなつもりになって永田町にやってきますが、彼らはわずか二三手先までしか読めないような将棋指し並の思考力しかありません。
このような政治家では日本の閉塞状況は打開できないでしょう。(というのが著者の指摘であり、私の意見ではありません)
イギリスが特に有名ですが、その他のヨーロッパの国々にも必ず「エリート」と呼ばれる人々が居ます。
彼らは単に政権や大会社の偉い地位について高収入を得ているということではなく、場合によっては国民のために生命を投げ出すこともできる指導者階級であるということです。
日本にはこのような意味の「エリート」はいません。
官庁のキャリア職や、大会社の重役は金銭的には恵まれていますが、彼らが国のために責任を果たし人々に奉仕するという事はありません。
ノブレスオブリージュという、貴人の義務を果たすという考え方自体が無く、社会の最上層にいるはずの人々が思想も行動も言葉も卑しいという現状を著者は批判しています。
このようなエリートを輩出すべき上流階級、中産階級はイギリスではずばり「読書階級」であるということです。
今の日本でかなりの金持ちであっても本を読まないという連中が横行しています。
金儲けだけがうまくても知識教養がついていかない人々が多いのでは衰退するのも当然ということでしょう。
私は読書だけは人一倍していますが、金にはまったく縁がなく上流階級どころか中産階級にも入れません。まあかなりイメージは異なるのではないでしょうか。
まあちょっと知識というものばかりが先行し鼻につく観も無いではない本でしたが、もうちょっと日本人も頭を使ってくれよという私の常に考えていることと少しつながるところもあるのではないかというところです。