爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

エネルギー使用量半減のための社会改革 7 運輸交通の問題

エネルギーの供給不安に対応できる強靭社会の確立のためにエネルギー使用量を計画的に半減するための施策について考察していますが、産業全般の存続については基本的にはエネルギーの桁違いの削減ができないものは続けられないといことで対応するしかないでしょう。

 

しかし、一番の問題は運輸交通をどうするかという点です。

前にも指摘したように現代の自動車社会そのままではエネルギー削減は難しいものですから、これをまずなんとかしなければ何も動きません。

 

とは言え、ここが最大の障害です。

 

現代社会は「自動車主義社会」とでも言えるほど自動車と密接に結びついて発展してきました。自動車が無ければという仮定で想像するのが難しいほどの密着ぶりです。

自動車産業自体が国の経済の最も大きい位置を占めているといえます。そればかりではなく、関連産業が広い裾野を作っており、また自動車が走るための道路の整備についても国費の大きな部分を投入して実施している状況であり、その工事に依存している業界も多く、そこにも関連産業が数多くあります。

また、自動車の普及に伴い住居の郊外移転が進み人々の通勤通学も自動車依存が激しくなりました。商業施設、公共施設等の立地も自動車交通を前提とするものに変わってしまい、その結果自動車運転が困難な人々の買い物難民化が問題となっています。

つまり、社会構造全体が自動車交通を前提としたものになってしまっているということであり、自動車脱却は簡単には行かないことが分かります。

 

しかし、自動車交通の弊害も大きなものであり、直接の事故死者も少しずつ減っているとはいえ世界では1年に数十万人に上っています。

また、環境悪化の大きな要因であることも言うまでもないことであり、排ガスによる汚染や粉塵による健康被害なども大きな問題です。

 

このようにその弊害の大きさは明らかでありながら自動車への依存が強まっていったのは、現代社会の個人主義への偏重が甚だしいためでしょう。

どこかに行くにも一々時間を気にしなければならないのが鉄道などの公共交通機関です。田舎の電車で通勤通学している人など、1本乗り過ごしたら遅刻必至という状況が当たり前ですが、自動車を使っていればそのような気遣いは無用であり、好きな時間にスタートできます。(とはいえ渋滞を予測しなければならないのは余計な手間ですが9

これが個人主義化を強めてきた現代社会で自動車偏重がさらに進んできた一因でしょう。

 

だからこそ、いかに将来に大きな危険があるとしても自動車社会からの脱却ということは非常に困難になります。とはいえ、なんとか取り組んでいかないかぎりはこの危うい状況はさらに解決困難になるばかりです。

 

電気自動車化、水素燃料電池車化などは実用化ははるかかなたの話です。もしもそれを追求した取り組みをしようとすれば、エネルギーの無駄遣いに繋がるのは明白で、さらに事態は悪化するでしょう。これらに期待を残すべきではありません。

 

自動車を捨てるためには、暮らし方の全てを変えなければなりません。住むところ、仕事、買い物、病院、銀行などどこに行くかが大問題です。さらに、買い物に行っても品物は揃わないかもしれません。

そこまでの犠牲を払っても捨てなければならないのか。そうであると信じています。自らの意思で捨てようとすればまだ困難が少なく済むでしょう。否応なしに自動車を捨てるようになったとしたら、最悪の事態に陥ります。

この危険性を避けるべきです。