爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「仏教、本当の教え」植木雅俊著

著者は仏教研究家で、東方学院で中村元博士の晩年に教えを受けたということです。
インドで紀元前に生まれた仏教は中国に伝わり大きく発展しました。そこではサンスクリット語で書かれた仏教原典を中国語に翻訳するという活動が紀元2世紀ごろから盛んに行われました。最初の頃には安世高、支婁伽繊といった人物で始められたのですが、その後代表的な人物として挙げられるのが鳩摩羅什、真諦、玄奘といった人々です。中央アジア出身で中国にやってきた人が多かったようです。
中国にない概念を中国語に移す場合に、音をそのまま当てはめるということも行われました。パンニャー・パーラミターという言葉を般若波羅密多と書いたのがそれに当たります。
この理由を玄奘は次のように挙げています。密教の呪いであるのでそのままとする。多義を含むので一つに訳せない。動植物や固有名詞で中国にはない。すでにそのままの言葉が定着している。そして、有難味が薄れるといったものです。
また、初期の頃の中国語訳とその後のもの(1000年以上離れているものもある)とはどういった訳語を用いるかと言う点については大きく変わってきたということもあります。

さらに、中国の文化に合わせるために意識的に改変して訳した場合もあります。ブッダは男女の差別と言うことを嫌い女性の救済と言うことにも積極的であったと言われていますが、中国では徹底的に男女差別がされていたところであり、女性を認める仏典をそのまま翻訳することはできなかったようです。そのため内容を極端に変えてしまったものも多いようです。

さらに日本に仏教が渡ってくるのですが、その時には漢訳の経典がもたらさされましたがそれを日本語に訳するという行動はほとんど取られませんでした。中国語そのままを読んでも誰も理解できないまま、漢字を音読して「お経として唱える」ばかりでした。
面白いことに、サンスクリット語の原典も日本には到来しており、中国でも失われたものが残るだけは残っているということはあります。しかし、その原点に立ち戻って教義の研究をするという人はほとんど表れないままでした。

そのような二重三重の誤解の中で、仏教と言うものの理解もその国それぞれの事情で行われており、原始仏教から見るとそうとう変わってしまった解釈が横行している事態となってしまっています。
著者が最初に挙げているのは「北枕」というものの捉え方です。日本では死者を安置する時に北に頭を向けるということから、生きているものが北枕にするのは忌まれるということになってしまいましたが、インド人は仏教徒であるか否かに関わらずほとんどの人が北に頭を向けて寝ているそうです。お釈迦様が亡くなる時には確かに北に枕をしていました。それは誰もがそうするからであって、「死ぬ時だから」ではなかったのですが、それを完全に日本人は誤解してしまいました。

ブッダが女性を蔑視していなかったという証拠として、弟子の中に多数の女性が居り、その中には非常に重要な人々も含まれていたことがあります。しかし、その後の仏教団の変質により女性の蔑視が始まり、「十大弟子」という女性を除外した男性だけの弟子のリストと言うものも作られました。しかし、初期の重要な弟子のリストには今残っている十大弟子以外に女性の弟子が23人、在家の男性の弟子が11人挙げられており、それらがすべて削除されてしまったようです。
こういった操作は中国に入ってからだけではなく、インドの中でも行われてしまったようで、インド国内での仏教徒集団も釈迦入滅後すぐに変質は始まってしまったということです。

仏教が目指したのは「真の自我」の覚知による迷妄・苦からの解放であったはずなのですが、中国に入った時には「無我」つまり「我が無い」ということに変わってしまいました。原始仏典にはアナートマンという言葉で呼ばれていますが、これはアートマンすなわち「自己」というものを否定するアンという接頭辞を付けたものです。これを中国語訳する場合に「無」を付けてしまったために「無我」となったのですが、実は「非我」我ではないが違う何かというものを指す言葉だったようです。鳩摩羅什も漢訳語として「非我」と言う言葉を使っていたそうです。
自己を知るという原点と、無我を尊ぶ展開というものはかなり異なる方向であったようです。

サンスクリット語から中国語に訳するということはかなり異なる言語を飛び越すものであり困難は大きいものでした。
中国語は一つの漢字が名詞にも動詞にも形容詞にもなるという特性があり、その多義性からあいまいさが生じるのに対し、インドヨーロッパ語族のサンスクリット語には名詞、形容詞には多くの格というものがあり、だれが、だれに、なにをというそれぞれについて言葉が変化するという性質があるためにあいまいなところは少ないようです。
とはいってもサンスクリット語にもあいまいさを生じる部分があり、それは多くの複合語を作る過程でできるもので、長いものでは10個以上の言葉をつなげてしまう例もあったそうです。複合語の解釈にはその構成要素の言葉の間に言葉を補っていかなければならないのですが、それをどうするかによって多くの可能性が生まれ、一つには決まらないそうです。

このようにかなりあやふやな面もある漢訳仏典ですが、それを輸入した日本ではさらにそれを恣意的に解釈するということも行われました。道元親鸞日蓮といった鎌倉時代の仏教変革者たちは漢字それぞれを自由に解釈して仏典を恣意的に読むということをやってしまったようで、そのために仏典本来の意味とはかなり異なるところで活動するということになりました。
まあだからこそあのような力強い活動ができたんでしょう。

中村元博士は著者たちに「漢訳仏典を読むときはサンスクリット原典がある場合は必ずそれを参照するように」と指導していたということです。そこまで広く参照し、さらにそれを改変した人々の意図とその行動も考えていかなければならないということですので、仏教研究と言うのは大変なものなのでしょう。ということが分かったという中身の濃い本でした。