爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「在日朝鮮人 歴史と現在」水野直樹、文京洙著

在日朝鮮人に関する問題では近年ヘイトスピーチといった問題も持ち上がっており、それを考えるについてもこれまでの歴史について正確な知識を持っておくことは必要でしょう。本書はそのためには必要十分な内容を教えてくれます。

古代から朝鮮半島より渡来した人々は数多く、現在の日本人の多くはその子孫であるかもしれないのですが、もちろんここで言う在日朝鮮人にはそれは含まれません。明治以降に来日しその後継続して住んでいる人々およびその子孫です。またごく最近やってきたニューカマーも一応は別扱いということになります。

多くの朝鮮人が半島からやってきたのは1910年の韓国併合以降ですが、それ以前も数は少ないものの労働者としてやってきた人々がいました。炭鉱や発電所建設に連れてきたのですが、これも朝鮮半島進出とまったく無関係ではなかったようで、日露戦争の時代に朝鮮半島で軍事施設建設などを請け負った日本の業者が日本国内の建設工事にも半島で使った労働者を連れてきたというもののようです。

しかし、もちろん急激にその数を増したのは韓国併合以降です。ただし、併合したと言っても人々すべてを平等に扱ったわけではなく、日本人と朝鮮人は戸籍で区別され相互に本籍地を移すことは禁じられていました。これは日本からは徴兵逃れで朝鮮に逃亡するのを防ぐため、そして朝鮮人は相変わらず監視・警戒の対象としていたためです。
それでも日本国内の労働者不足によって朝鮮人の労働者募集が増加しました。初期には紡績工場への女性の雇用が多かったようです。
しかし、第1次世界大戦がはじまると建設労働だけでなく工場労働者も不足するようになり、朝鮮からの労働者が急増しました。ただし、労働者を連れてくるブローカーには悪質なものが多かったため、政府の規制もかかるようになりましたが、警察も結託していることが多く監視は不十分だったようです。

1920年代にも日本に渡航する朝鮮人は増え続けました。1923年には10万人に達していたようです。しかしその年に起こった関東大震災の時には日本の軍隊・警察、さらに自警団などによる多くの朝鮮人虐殺が起こりました。
正確な数字は不明のままですが数千人の犠牲者が出ました。
しかし、それでもその後の半島からの日本への人口流出は止まりませんでした。これは朝鮮半島の植民地化の進展により様々な混乱が生じて土地を失う農民が増加し、半島内では職に就けないために内地に渡航するしかなかったためです。それは半島の学校での日本語教育の強制により日本語が話せるようになったからという面もあったようです。
彼らは下層の労働者などとして都会に集まり、徐々に集合して住むようになりました。大阪や川崎など今に続く朝鮮人街で、そこでは朝鮮伝統の生活様式も守られ、学校教育をしようとする動きもあったのですが、日本の警察の取り締まりが強く、朝鮮語教育も禁止されました。
日本は徐々に戦争体制に向かっていくなかで、朝鮮人の間にも組織を作る動きがあり、中には日本政府に協力するものもあったようです。

1939年以降はそれまでの自由意思での来訪とは異なる、強制連行、強制労働も始まりました。日本内地でも国家総動員法により国民すべての動員可能としたわけですが、朝鮮にもそれを適用したことになります。一応朝鮮半島からは募集により労働者を連れてくるという形ですが、募集に応じる人が少なければ強制的に集めるということも起こりました。
戦後の1959年に外務省が「在日朝鮮人61万人のうち戦時中に徴用労働者として連れてきたのは245人だけ」と発表し、それが現在でも強制連行と在日朝鮮人とは関係がないという論拠とされることがあるのですが、これは44年以降の徴用労働者だけの数であり、39年以降の労務動員計画による集団移入全体の数ではないということです。

1945年に敗戦となると、在日朝鮮人は複雑な様相を見せます。徴用された労働者などはすぐにでも帰郷しようとしたのですが、古くから内地に移住してある程度の生活基盤を作っていた人々も居り、彼らは必ずしも敗戦を歓迎はしていませんでした。
しかし、日本政府も占領軍も在日朝鮮人を統治しようとする余裕は全くなく、中には闇市で活躍するという在日朝鮮人も多かったということです。
多くの人々が戦後すぐに朝鮮半島に向かって帰郷を始めたのですが、46年になるとその数は減少しさらに一度帰国したものが戻ってくるということも多くなってきました。朝鮮半島ソ連の影響が強くなったために左派の弾圧といった状況も起こり、深刻な食糧難や失業といった事態で日本からの帰国者は厳しい状況になったようです。また当時はすでに在日二世も多かったのですが、彼らは朝鮮語も話せず母国には全くなじめませんでした。
そのために日本への再入国を求めるということになるのですが、当時は再渡航は厳禁されており、密航と言う形を取るしかありませんでした。
結局、在日歴の短い150万人ほどは帰国しましたが、55万人は日本に留まることになりました。

彼らを組織して「在日朝鮮人連盟」(朝連)という団体が作られ、1945年9月には活動を始めています。その構成は共産党を中心に民族主義者、キリスト教者も加わるというものでした。しかし、共産党の影響が強すぎたためにそれを嫌った民族主義者たちは「在日本朝鮮居留民民団」(民団)を結成しました。朝連と民団は激しく争い、乱闘事件も頻発しています。
占領軍の政策転換により、在日朝鮮人は日本の政府に従わせるということが確認され、かえって就職差別はひどくなり日本の一般企業への入社は難しくなりました。日本人の海外からの帰国者が増えたために就職難になったことも影響したのかもしれません。
そのために、闇商売の利益を元に遊技場(パチンコなど)や飲食店を開けた一部の人は良かったものの、多数の人々は職を失いました。
また、日本国籍を与えないという決定も政府によってなされ、帰化か排除かと言う基本姿勢が形作られました。

朝鮮戦争が休戦し、北朝鮮での金日成体制の確立という事態を受け、日本の在日朝鮮人社会にも北朝鮮への帰国運動というものが起こります。日本側から見ても厄介払いになってよいという思惑もあったのか、政府の支援も直接にはないものの黙認と言う形でなされました。韓国からの強い非難もあったのですが、それ以上に帰国運動と言うものは強かったようです。これにはほとんど職が得られないという厳しい状況があったためです。

1970年代になるとそれまでの厳しい就職差別に徐々に風穴を開ける活動が実を結ぶようになりました。日立就職差別裁判などの判決も差別禁止となり、都会の自治体を中心に国籍条項の特例という方向にも動きました。これには日本人の国際化意識の進展も関わっていました。
ただし、在日朝鮮人側にも意識の変化が大きく、日本国籍を取得する人々も多くなり、また日本人との結婚も増加して朝鮮籍の在日の人々の数はどんどん減っているようです。それが良いこととだけ言えるかどうか分かりません。

昨今の状況を見るとまだまだ予断を許さない状況のようですが、このような歴史を知ることできちんと向き合えるのかもと感じました。