爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

環境問題と環境破壊 環境破壊が防げればそれで終わりか

日本での環境と言えば水俣病に代表される水質汚染四日市などの大気汚染から意識されるようになったというのは間違いのないことです。
それに対応するという形で排出技術の開発が行われ、汚染物質の排出は非常に少ないものとなってきました。まだあちこちに不備はあり汚染が止められないというのも事実ですが、それを少なくしようという方向にはあると言えます。

一方で大きな問題としては地球は6度目の「大絶滅時代」に入っているという説があります。これまでの5回はいずれもその時の生物種の80%以上が絶滅したと言われていますが、現代も刻々と生物種の絶滅が続いています。
この原因として、環境汚染を挙げる人もいますがそれは無いとは言えないと思いますが大きな要因ではなく、とにかく人類が増えすぎたためだと言えるでしょう。増えすぎた人類は居住場所を増やし続け、食料の生産場所として農地という名の単一生物の培養場を広げ続けています。そこにはかつてのその場所の環境を生育場所としていた生物の住める状態ではなくなってしまいます。顕著な事例としては現在も進行しているブラジルのアマゾン川流域の状況が目につきますが、実はこれは世界中の各地でこれまでにも起きていたことなのです。

日本はそのほとんどが「照葉樹林帯」であると言われます。ブナなどの照葉樹林が全土を覆っていたと考えられますが、現在では山地も含めてそのほとんどが失われています。もちろんそこに生息していた生物種の多くは絶滅したことでしょう。多くの人が勘違いをしていると思いますが、照葉樹林は山地だけにあったのではありません。平地も含めすべての土地がそうであったと思います。そのわずかな残像が神社の森です。
それがどうやって起こったかと言えば、人が入り込んで以来営々として続けられた農地開発と住居整備によるためです。木を切り倒し切り株も取り去って平らで何も生えていない土地を作り出しました。一帯をそのようにすることで、大雨の時の流出土壌も増えて下流に土砂を運び沖積平野を作り出しました。
このように作られた水田と周辺の里山を見て多くの日本人は「自然」を感じるようです。しかし、その事実は「自然」そのものとは全く異なる「人工の植物生産場」なのです。
マツタケの生息する赤松林は森林の遷移という点からみると、最終的な森林破壊の一歩手前まで来たという状態だということです。そこの「手入れ」が行き届かずに雑草や雑木が生えてくると「山が荒れた」と言われますが、実際は本当の自然状態に戻ろうとしているだけなんですが、そうとはなかなか認識されないようです。

このように、人類の歴史時代に営々として続けられてきた農業を行い生きてきたということそのものが、自然というものを破壊して生物種を絶滅させてきたということです。ここには最近の環境破壊のように汚染物質の影響はあまり関係がありません。言ってみれば、「汚染をしなくても環境は破壊された」ということです。
環境汚染を防ぐということは今の状況では重要なことは間違いのないことで、今後も続けなければならないことですが、それだけで終わりではないということは確かでしょう。このままいけば「汚染はないけれど生物種はいない」という状態になってしまいます。
私自身も人間ですから生きるためには食料が必要ですし、住む場所も要ります。それを失くせとは言えませんが、ある程度は自然のままの場所を残すということをしなければ、第6大絶滅時代は間違いなく到来するでしょう。すでに始まっているのかもしれません。