爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「日本人のひるめし」酒井伸雄著

日本人が「ひるめし」というものを食べだしたというのは意外に新しいことのようで、江戸時代初期でもまだ一日二食という習慣が広かったようです。
しかし、その後一般化してきます。そこには弁当、給食、外食といった問題が密接に関わってきます。こういった点について、そしてひるめしとして食べられることが多いメニューについても書かれているという幅広い本です。
書かれたのは酒井さんという、大学農学部を卒業後民間の食品メーカーに勤務され長らく食品開発の仕事に携わり、退職後は食文化についての研究をされ著書も書かれている方です。

現在は世界でも一日三食という習慣を持つ国がほとんどのようですが、実は現在でもそうではない民族もあり、エスキモーやニューギニア高地人などは家族が一定の時間に決まって食事を摂るということもなく、腹がすけば各自勝手に食べるということもあるようです。これは他の地域でも古代以前にはそういうこともあったのかもしれません。
しかし、文明化とともに「調理」という過程が入ってくると自然と調理された食事を集まって食べるということが発生し、それが決まった食事回数となってきました。
それは長い間一日二回の食事であったようです。ただし、これには間食は含みません。特にきつい労働をしている場合は昼食ともいえるような間食を取ることは普通だったようです。

鎌倉時代になると、公家社会や禅宗の寺院などで昼食を摂る習慣が普及してきたそうです。しかしそれが一般の武士や庶民にまで広がったのは江戸時代も中期に近づいてからとのことです。
とは言っても、昼食の内容は簡素なものであり、伝統的に朝夕の食事は汁もつけてお菜の種類も多いものの昼食は簡単にというのも長く続いている習慣であり、現代でもその傾向があるのかもしれません。
なお、ヨーロッパでは事情が異なり、昔は「昼と夜」の二食でした。夜食べてから翌日の昼までは「断食」になりあまりにも長いからということで朝に食べるようになったのが「ブレイクファスト(断食を中断する)」だったということで、そのためにヨーロッパでは朝食が簡素という傾向があるようです。

昼食というものの起源が違うためか、南ヨーロッパの国のように昼食は家に帰ってゆっくりと食べるというような習慣のない日本では、弁当・給食・外食というのが昼食というものを良く表しています。そのどれもが基本的には昼食用となっています。
弁当というと握り飯というイメージですが、もともとの米飯というものは強飯(こわいい)というものでした。これはもち米を蒸したものです。室町時代まではこれで握り飯を作り携行したのが弁当でした。しかし、より収穫量の多いうるち米が稲作の主流となると蒸したものは食べにくかったようです。そこで出てきたのが鉄製の釜を使った炊飯でした。それ以前の土器では炊飯をすると割れてしまったのですが、鉄釜が庶民にまで普及することによってはじめて炊飯ということができ、それで炊いた姫飯(ひめいい)というものを使った握り飯が登場したわけです。
このような弁当というものは、明治時代から昭和初期までが最盛期だったようです。今のように外食や給食が完備していなかったために、外に出る家族のために朝弁当を作るというのが主婦の役目となりました。これは食事の習慣の変化にもなったわけで、それまでは米飯を炊くのは朝と決まったことではなく、地域・家庭により様々だったのですが、弁当の必要性のために必ず朝に炊飯することになりました。
しかし、弁当というものは昭和30年ころより以降、徐々に衰退していきます。これは日本食の特性によるもので、著者によると日本食は出来立てのアツアツを食べなければ美味しくないということがあり、弁当というものはどうしても味が落ちることになるために、暮らしに余裕ができてくると徐々に外食などに移行してしまったそうです。
それを良く表しているのが「ほか弁」という存在であり、弁当というものが家で作って外に持っていく物から、店で買ってきて家で食べる物に代わってしまいました。これもアツアツというのがキーワードです。

給食というものも一番大きいのは学校給食ですが、職場などでもそのような様態のものもあり、広く普及しているものです。もともとは兵士に対する食事の供給というところから始まりました。近代でも軍制の整備とともに軍隊での給食というものが発達しました。
学校給食というものは、第二次大戦以前はそれほど広くは行われていなかったようです。貧困家庭の子供が弁当持参できないためにその救済という意味で行われてきました。
それが戦後の食糧難でアメリカからの食糧援助を給食とするといった方策がなされ、その後どんどんと広がることになりました。
そこではパン食が普通であったために食生活が大幅に変化する要因ともなりました。日本の食生活を大きく変えたのは学校給食だったと言っても間違いではないようです。

外食も昼時の空腹を満たすというところから出現しました。江戸時代に茶屋や屋台といった業態が出現し、そこでの食事というのが普及していって外食産業の発展ということになったのです。江戸時代でも中期以降は専門の料理茶屋といったものもでき、だんだんと高級な料理を出すようになりました。そうなると昼食ではなくなったのでしょう。
江戸時代、といっても特に江戸の町では圧倒的に男性が多かったということもあり、このような外食の需要が高かったためにその発達も必然のものでした。ちなみにこの男性過多という現象は性産業の発達をも引き起こしました。
簡便なものとしては屋台も多数に上り、江戸の町には至る所に屋台が営業するということになりました。これらの屋台で出された食品は、握りずし、てんぷら、そば、うなぎなど、現在日本食の代表的なものとして見られているものが多くなっています。これらの食品は今では高級化してしまい高価なものですが、もともとはこのような庶民的なものであり、高級料理店で出されるものではなかったということです。

食事に限らず、昔は生活のほとんどを家庭内で賄うことが普通でしたが、それが徐々に社会化してしまいました。衣類なども自家製が普通であったのが今では洗濯すら自分でしない家もあります。食事も徐々に外に出るようになってしまいました。今後もその傾向が強まるだろうというのが著者の意見です。
外食が近代になり徐々に増えてきたというのは日本では当てはまりますが、実は中国では漢の時代にはすでに外食が普通であったようです。日本も朝食から外で食べるという時代になるのかもしれません。「ひるめし」化が一日のすべての食事になってしまうのかも。ちょっと寂しい気もします。