爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「メアリー・ポピンズのイギリス」野口祐子編著

メアリーポピンズというと、P.L.トラヴァースの1934年の小説を、1964年にディズニーが映画化したものが想像されますが、原作ではその舞台はロンドンではあるものの年月は確定されていません。ディズニー版の映画となった時に舞台の時は1910年であると決められました。
そのほかにも原作から映画に進む過程で変わっていったことも多いようです。
ディズニーの映画は名作として知られ、普通はメアリー・ポピンズというとそちらの方が想起されるようです。

しかし、その映画および原作を細かいところまで見ていくと、1910年当時のイギリスの社会がどのようなものであったかということが良く分かるものであり、社会科学や経済学の本を読んでいくよりはるかにわかりやすいものになっているということです。
このような視点から、京都府立大学教授の著者が周辺のイギリス文学研究者とともにこのインパクトの強い文学作品について、そしてその舞台となったイギリスの社会について書かれたものが本書です。

原作ではぼかされていた舞台の年月ですが、映画では1910年と確定されています。著者らはこれが非常に強い映画製作者の主張が含まれている点だと指摘しています。
1910年に国王のエドワード7世が死去し王が交代するのですが、それ以上の社会の変化というものがやってきます。それまでのビクトリア朝の価値観が残り、さらに世界の中でも覇権を保っていたイギリスがそこを境に急転してしまうことになります。メアリーポピンズがやってくるバンクス一家というのも、主人のバンクス氏が銀行勤めの中流階級の上といった階層の家族であり、それまでのイギリス社会では権力側に属する階層であることになっています。
しかし、その付近から急激な社会変動が起こり、イギリス自体の力も激減するとともに、社会の権威というものが崩れ去っていくことになります。そこをうまく捉えた舞台設定と言えます。

登場人物としては、一家の主人のバンクス氏ですが、最初は全くの保守主義者であり銀行勤めということもあってイギリス帝国主義の先兵ともいえる人です。家庭内でもその定義通りの家庭運営を目指すというもので、家族には強圧的な指示を与えすべて従わせるといった性格を持たされています。最初は。
母親のバンクス夫人は最初の登場は婦人参政権運動にかかわるといった性格付けをされていうものの、その後はほとんど活躍の機会がありません。それというのも、当時のイギリスの中流階級以上の家庭では子供の世話というものはすべて「ナニー」と呼ばれる世話係に任されており、父親ばかりでなく、母親もほとんど子供の世話には関わらなかったからだということです。
当時のイギリスの中流以上の家庭では、子供は常にナニーとともに過ごし、午後のお茶に時間に両親のもとに出てくる以外は子供部屋から出なかったということです。したがって、その階層の人々の成長というものは両親よりもナニーの影響の方が強かったとか。

メアリー・ポピンズもその一人である「ナニー」というものは、言葉としては「ナース」の幼児語なのですが、母親に代わって子供の世話をする女性のことを指します。19世紀に発達した制度であり第二次世界大戦の頃には消滅してしまいました。イギリスでは産業革命により上流・中流階級に富が集中して使用人を多く雇うことができるようになったために、教養のある使用人を子供の世話係としてだいたい学校に進むまでの子供の世話・教育をやらせたものです。
ナニーとなる女性はだいたい労働者階級の娘だったようです。ただしある程度の教養がなければ勤まらないので、後期にはナニー養成学校というものも存在していたということです。
メアリー・ポピンズもバンクス家の前任のナニーが突然退職して居なくなったためにあわてて募集をし、その広告が魔法の国に届いてためにやってきたということになっています。

この物語には重要な登場人物がもう一人います。それは主に煙突掃除人(ほかの役割も兼ねているようです)のバートで、映画ではディック・ヴァン・ダイクが扮していますが、実は原作ではほとんど存在感がなく映画でディズニーが作り出した人物のようです。
彼の主題曲というべき「チム・チム・チエリー」が大変有名なのですが、この映画の中では自由人のように描かれているものの、実際の煙突掃除人というものは労働者の中でも最底辺のものとして存在していたようです。
特に19世紀に多かった煙突掃除人は、石炭を多く使うようになった当時のイギリスの社会の中では欠くことのできない存在となりましたが、その過酷な労働環境と、非常に安い賃金という状況下で、幼児の頃から強制的にその仕事をさせられるなどといった事例も多く、社会的にも偏見を持たれて見られる職業だったようです。
それをまったく逆の性格のバートとして描いたのはディズニーの映画全般に見られるようなファンタジーというものの作り方によるもののようです。

もう一つ考えなければならないのは、原作が1910年ころのイギリスの社会を批判するという性格があったとしても、映画は1964年のアメリカで製作されており、その目的も違ったものであったということです。当時はアメリカの核家族の幸福というものがまだ信じられていたものの、すぐ近くにその崩壊もやってくる予感が強く感じられる頃でした。
そのような不安感の中で、イギリスの帝国主義が崩れかけていても家庭を重視する方向にハッピーエンドとなる映画を作るというところに主題があったのではということです。

なお、そのようなディズニー映画の方向性にその後疑問を呈して原作の解釈に近づけた2004年の舞台版というものもあるようですが、これはまったく知りませんでした。

今となっては映画の記憶もかなり薄れるほどに昔の話になってしまいましたが、あのジュリーアンドリュースが傘を持って空を飛ぶ場面はまだ目に浮かびます。そこの裏側にいろいろな意味があるということは興味深い内容でした。