爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「唐から見た遣唐使 混血児たちの大唐帝国」王勇著

遣唐使(遣隋使も含め)は7世紀に始められ、第20回目に菅原道真が正使に任ぜられながら廃止と決まるまでの約200年続けられて数千人の人々が唐に渡りました。遭難が相次ぎ犠牲者も相当な割合に上ったということや、阿倍仲麻呂が帰国を果たせず唐で死亡したということなどはよく知られていることですが、正使・副使以外にも多数の侍者や留学生・留学僧などが唐に渡りました。その中には唐の女性と結婚し子供をもうけた者も多数であるものと考えられますが、こういったことはなかなか正式な記録には残っておらず、わずかに数名の話が伝わっているのみです。

中国の研究者で日中の古代の交流を主に研究してきた著者が、遣唐使の人々と唐の女性との間に生まれた混血児に焦点を当てて調べたものの中から特に印象的な人々について語っています。

遣唐使といえば日本からのものだけではなく、当時は唐周辺の国から頻繁に派遣されていました。しかし、その交通の困難さと犠牲者の多さから、中国でも日本からの使者というのは特別視されていたということです。
無事に到着した使者は非常な歓待を受けました。また能力も高く、外観も優れたものを選んで送っていたために、唐の朝廷でも重用された者も多かったということです。
正使などは年齢も高く、日本に家族を残していたのでしょうが翌年には帰国するのが普通であったのですが、留学生・僧は場合によっては何十年も唐に留まっていたものもありました。彼らは出発時には年若く、妻帯もしていなかったようなので、唐で妻を迎えるということも多かったようです。唐の制度でも外来者の唐での結婚は認められていたのですが、問題は彼らが帰国するとなった時には原則として妻子は唐から出られないという決まりがあったことです。
ただし、ごく一部の例外として混血児が数名日本に戻ることがあり、その中には帰国後に朝廷で活躍した者もいました。

702年の第8次遣唐使に学僧として選ばれた弁正法師は僧とは言いながらその他の学芸に優れ、特に囲碁の名手だったそうです。それが当時は即位前であった玄宗皇帝(李隆基)と囲碁仲間となり、還俗して玄宗に仕えるということになりました。妻を迎え子供が生まれたのですが、その名を秦朝元と名付けられました。
朝元は年少時に日本に渡り、通訳養成の教官として働くこととなり、従五位上まで上り図書頭などとなったそうです。

阿倍仲麻呂と同じ時に唐に渡った羽栗吉麻呂も唐で結婚し二人の男児を設けました。翼(つばさ)と翔(かける)という兄弟は父とともに日本に帰ることができ、翼は天皇の側近として昇進を果たしたそうです。

まだ唐との関係が重視された時代で、通訳の必要性も高かったために中国生まれの彼らは能力発揮の機会が多かったのでしょう。

それにしても、遣唐使というと遭難ということが付き物だったようで、帰国できることとなった混血児も海難に巻き込まれたという場合があったようです。なぜにそこまで渡海技術が失われてしまったかということが不思議なほどです。その数百年前には平気で朝鮮まで戦争をしに行っている時代もあったのに、無残なまでの衰亡ぶりです。

遣唐使にまつわる、少し違った角度からの見方を楽しませてもらいました。