爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

原発再稼動に向けて 脱原発には社会の大変革が必要

いよいよ原発の再稼動に向けた動きが活発化してきます。福島原発の事故から4年になり、反原発の動きが弱まったことを見越したものでしょうか。

しかし、勢いが弱まったとはいえまだまだ多数の再稼動反対の意見も出ているようです。
ところが、その主張は相変わらず「安全性の不安がある」という点のみに限られているように見えます。
(以下、脱原発には社会の大変革が必要と述べますが、誤解してほしくないのは、”だから脱原発など無理”と言うつもりは全くないということです。それでも脱原発をすることが必要であり、そのためには経済縮小まで含めた社会変革をしろと言う主張です)

政財界などの主張は、「そのような原発廃止論は現実的ではない」ということに代表されます。すでに停止してから長いので「現実的」ではなくなっているのですが、彼らは311直前の状態が「現実的状態」と考えたいのでしょうから、それを目指しているのでしょう。
「現実的」ではない現状がどうなっているのかというと、電力消費量にはさほど変化はなく(減りもせず)供給はほとんどが火力発電の増加で賄われています。そのための天然ガスや石油の輸入量が増え、貿易収支の赤字は巨大なものとなっています。
「現実論者」たちの主張するように、このような国際収支の赤字は看過できるものではなく、日本経済の先行き不安にもつながっているのは確実であるために、やはり原発再稼動が必要という議論にもなっていくわけです。

ここに「一つの前提」への無批判な隷従があります。なぜ、電力やエネルギーの消費を現在並にしていかなければならないのでしょう。それを縮小できれば脱原発も可能なのです。
エネルギー消費量というものは経済活動に直接リンクするものであり、その減少は経済活動の減少につながるからそのような方策は初めから考慮にも値しないと位置づけられているのでしょうが、そこに袋小路に入ってしまう原因があります。

原発を動かさずに今の電力供給を続けていくのは無理がある。再生エネルギーなどの開発もまったく間に合わない。だから原発再稼動という論理ですので、そこにいくら「原発には安全性に不安がある」と主張しても、思い込んだ人達には受け入れがたいものなのでしょう。

しかし、そのような袋小路を抜けるためには、「原発を動かさなくても良い程度に経済を縮小する」という選択肢を認めることです。それは経済規模の数十%の縮小になるのかもしれません。ほとんどの人はこれはとんでもないことで認められないと考えるでしょうが、実はこれだけが原発廃止を可能とし、さらに日本の将来の破滅を先延ばしできる策なのです。
もちろん、これは簡単なことではなく日本の社会全体を見直さなければならない方策です。場合によってはエネルギー大量消費産業などは海外移転を促すといった施策も必要となるような大変革です。だからこそ国民全体を巻き込んだ議論をしていかなければならない問題です。

この議論を早く始めなければ日本の危機を避けるには間に合いません。いつまでも「原発は怖い」「動かさなけりゃ赤字」といった幼稚な議論を続けている場合ではないということを知るべきです。
したがって、今後選択しなければならない問題は「危険を冒して原発を動かす VS.安全性が確保されるまで原発は停止」ではなく、「社会の危険性を省みず原発を動かし続ける VS.社会を変革し原発が無くても良いほどまでに経済を縮小する」でなければなりません。
そのための方策はこれまでのような小手先の省エネや再生エネルギー開発では済みません。電力料金の大幅値上げや、産業の海外流出を促す、嫌な人には海外移民をも勧めるといった荒業が必要になるでしょう。それでも実行すべきです。そのための議論をできるだけ早く始めなければ間に合わないでしょう。