爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「未曾有と想定外 東日本大震災に学ぶ」畑村洋太郎著

失敗学、危険学の畑村さんが、東日本大震災とそれに伴う福島第1原発の事故について、その年の7月出版と言うことですからわずかの期間で書き上げた本です。

この震災の津波は「未曾有」と呼ばれることもありましたが、著者は決して未曾有などではないということを強調しています。しかし、個人がその短い一生の中で体験したことがないといった程度で「未曾有」と言う言葉を使うとしたらそれはまったくの誤りと言うことです。
歴史的な記録の中ですらこのクラスの津波は確認されることですし、それ以前のものも様々な調査で明らかになっているように、決して今までになかったことではありません。単に自分は忘れたということを未曾有という言葉で表してごまかすということは何のためにもなりません。
津波の襲来に際しては、なにもかも放っておいて逃げると言われていますが、職務上留まることを選び殉職してしまった人々がたくさんいました。介護士の人が老人を見捨てられずに犠牲になったという例も多かったようです。他にもこのような職業倫理のために犠牲になった人々が数多いのですが、これらを美談として語り伝えるだけでなく、このような人々を簡単に死なせない社会を作らねばならないと著者は強調しています。

また、原発事故では「想定外の津波」といった言葉がたくさん使われました。これにも著者は大きな疑問を呈しています。安全管理を担当していたはずの人々からこの言葉を聞くと、「すべての事態を想定するのがお前の役目じゃなかったのか」と言いたくなるということです。正に当然のことです。
「本質安全」と「制御安全」という考え方があるそうです。いくら安全弁を用意していてもそれを「制御」しなければならないとしたら、それは事故につながる可能性がなくならないと言うことです。すべての制御が不可能になっても自動的に停止すると言う「本質安全」の技術を確立するということが本当の意味での安全につながることなのですが、原発の技術と言うものはそのような本質安全とは正反対にあるもののようです。

なお、あまり大きく取り上げられてはいませんが、著者が着目したのは福島県須賀川市の農業用ダムが決壊したことだそうです。ダムというものが決壊したということは他にもほとんど例のないことで、通常は安全率を極めて高く見積もっているためにほとんど有得ない事例だったようです。地震による堤防破壊というのは1853年の香川県満濃池以来だったとか。

地震津波・火山・大雨等、大きな災害が起こりやすいのが日本列島の宿命のようなものです。しばらくの間無かったからといって対策を忘れてしまったかのような風潮は危険極まりないものです。著者が取り上げている例は東京の大浸水です。八ッ場ダムの建設中止の問題は大きく取り上げられましたが、その発端となったのは1947年のカスリーン台風による大水害からでした。今となってはそのような水害の記憶のある人もほとんど残っていないためか、公共事業投資の話だけで建設の可否を決めるようなことになってしまいましたが、かつてのような水害が起こらないということは決して言えないようです。もし首都圏大水害が起きればその損害は多大になるということです。
水害の規模としては「未曾有」とは言えなくても災害の被害としては「未曾有」になる可能性がありそうです。そこまでを「想定」しなければいけないのでしょう。