爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「隼人の古代史」中村明蔵著

著者は高校教諭、短大教授を経て鹿児島の大学教授となり、鹿児島の熊襲・隼人に関する研究をされている方と言うことです。

隼人というと今でも薩摩隼人という言葉が残っているように、鹿児島のちょっと他の地域の日本人とは異なる人々というイメージを持ちますが、古代にはどのような状況であったか、あまり詳しく知る人は多くないようです。
5世紀以降の古墳時代の墓制を見ると熊本県南部から川内市などの薩摩地方北部までの地域と、宮崎県から大隅地方にかけての地域ではまったく異なる墓が築かれており、文化圏の違いというものが見て取れるようです。
ヤマト政権に近かった大隅地方と、離れていた薩摩地方ではかなりの差があったようです。

隼人とともに言われることの多い、「熊襲」ですが、これがどこの人々を指すのかはかなり不明確であるようで、一般に言われているように熊本県人吉地方の「球磨」や大隅曽於郡をつなげて呼んだというのはどうも違うようです。
球磨と曽於では地域的にもかなり離れており、当時の考古学的発掘を見てもほとんど関係なく並べて呼ぶのは妥当ではないということです。熊襲という言葉自体、古事記日本書紀だけでなく各地の風土記にも現れるということですが、どうやら風土記の記載は記紀に影響されてできたもののようで、実態はなかったのではないかということです。

隼人(ハヤト)の名もどこから来たかという説は色々とあり、速い人や囃し人などからという説もありますが、著者の説は方角と神を結びつけた四神信仰のなかで、南方の守護神の朱雀が実は鳥隼と現されることがあり、そこからハヤブサの人となったのであろうということです。
隼人は大和朝廷でも南の守り神として重用されており、その儀礼と赤い色というのは密接に関係しておりこれは朱雀ともつながるということです。

隼人はもともとはヤマトに属さぬ異民族であったものが、降伏して以降は大和朝廷の守護兵として使われており、初期には税を納める民ではなく朝貢する民族として扱われていたそうです。また、天皇の移動の際の護衛役も勤め、悪霊の居そうな所に差し掛かると吠えるような声を出して除霊をする役割であったとか。

しかし、8世紀にはいり大隅薩摩の支配体制も整う中で、隼人も納税を負担する国民として扱われるようになり、さらに大隅には豊後から、薩摩には肥後から多くの植民者を移住させたということが起きたようで、当時の郷名にはその元の郡名がそのまま使われていたということがあり、薩摩には肥後の合志や飽田という郡名のついた郷があったそうです。
隼人の側から見ると強権的な支配の押し付けであったので、たびたび反乱を起こしたようですが結局は平定されてしまいました。

大和朝廷では隼人の勢力を重要視する姿勢がかなり遅くまで残っていたようで、隼人司(はやひとのつかさ)という行政組織があったようです。これは蝦夷や奄美以南の南島人に対する姿勢とは異なり隼人の重用さというものを示しているようです。

日本の神話では天孫降臨したのは日向であり、その後薩摩のアタツヒメと結婚して生まれたヒコホホデミが皇室の祖となったということになっています。このような南九州重視の神話が何故生まれたのかというのは謎のようです。
著者は海幸彦、山幸彦の神話はあとからの挿入であろうと判定していますが、どうだったのでしょうか。