爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「宗教で読む戦国時代」神田千里著

日本の中世宗教史が専門という東洋大学教授の著者ですが、一向一揆の研究が主であったところたまたま島原の乱も調べたことがあり、どちらも宗教の絡んだ一揆と見なされていたもののその違いの大きさに驚いたそうです。
戦国時代にはまだ宗教集団の力というものが相当大きく、また加賀の一向一揆も有名ですが、逆に信長の長島一向一揆の鎮圧や比叡山の焼き討ちなど大名側の対応も激しいものだったと見られています。
また、島原の乱についてはさまざまな見方があり、宗教一揆の性質を大きく取り上げる人も居る一方、飢饉とそれの領主の対応のまずさから起こったという面を強調する人も居るようです。
そのような状況についてキリシタンとそれをめぐる仏教側の対応、またその他の宗派対立などさまざまな戦国時代の宗教に関わる問題を総合的に解説しておられ、やや一般向けというよりは専門的なものになっているように見えます。

戦国時代末期に日本に到達したキリスト教宣教師はイエズス会で、急激に信者を増やしていきました。彼らが本国に送った報告は現在でも数多く残っているようですが、そこでは日本の宗教事情についてさまざまな記録がなされています。
宣教師たちは日本の仏教について多神教の宗教と認識せず、一つの主なる神を信じるというキリスト教に似た宗教と感じたようです。そのため、悪魔の偽造したものと見なしました。日本人は菩薩や阿弥陀をそれぞれ仏と見ていますが、宣教師はキリスト教の聖人と同じようなものと考えたようです。
また、キリスト教受け入れの時期には仏僧との宗論を数多く行ったのですが、これもキリスト教の宗派間の神学論争と同様に対したようです。

当時は仏教の各宗派の間でも宗論が数多く行われており、戦国時代というどうしても生死ということを意識せざるを得ない世相から宗教の意識も高まっていたということです。しかし、どの宗派の信者にも「天道」という意識があり、宗派ごとに一番尊敬すべきものは阿弥陀仏であったり、法華経であったりしても、その源には天道があるという共通点があったということです。それがキリスト教から見ても主たる神と共通しているという認識であったようです。
そのため、キリスト教に入信した日本人もデウスは天道であるという意識が強く、受け入れやすかったという事情があったのかもしれません。

戦国時代の宗教といえば、一向一揆が忘れられないものですが、これが「宗教一揆」と言えるものかどうか、著者は疑問を呈しています。加賀の一向一揆や石山合戦、徳川家康が苦しめられた三河一向一揆などが有名ですが、実は「一向一揆」とはその時代の言葉ではなかったそうです。このように呼ばれたのは江戸時代でも中期以降であり、当時の史料には単に「土一揆」とあるばかりです。
実は宗教としての浄土真宗(一向宗)を相手としての戦という感覚はなく、戦国の一大勢力としての本願寺などの宗門との勢力争いがあり、それに各地の信徒が加わったということで、宗教が原因となったものではないということです。
そのため、浄土真宗でも本願寺派以外の高田派等についてはその動向がまったく異なり、敵味方となることもあり、またそれぞれが別の大名と結ぶということもありました。

信長は一向宗とは激しく対立したということも、実際は無かったようで、イエズス会宣教師が本国への報告に大袈裟に書いたものが広まったようで、宗教勢力とも適宜同盟を結ぶということもあったようです。
これまでの「一向一揆」像というものは、実は江戸時代になり浄土真宗の東西本願寺の正当性をめぐる論争が激しくなるなかで作られてきたものではないかということです。
なお、各地で一向宗の禁止令というものが出されたのは事実ですが、ここで「一向宗」と言われているのは実は本来の一向宗だけでなく山伏や陰陽師、琵琶法師などの宗教者をまとめて呼ぶことがあったということで、そのような怪しい宗教者を取り締まるという目的のものだそうです。

日本でのキリスト教布教の流れは島原の乱で一端とだえますが、これは宗教一揆ではなく飢饉の際の年貢取立ての厳しさに反抗した農民一揆だという見方もあるようですが、著者は島原の乱については完全にキリスト教を撲滅するという政権側の動きに対する自殺行為としての一揆だと考えています。
そもそもキリスト教を禁止するという方向に政権側が動いたのは、キリスト教宣教師側に原因があったようで、布教の初期からキリスト教に入信した信者に対して神仏に対する攻撃を奨励し、仏僧を殺害させるなどということが頻発したようです。
当時の一般的な感覚としては宗教の宗派を選ぶのは自分の勝手で、しかし他の宗派を攻撃するということは厳しく禁じられていました。そのためにそのような性格が強かった日蓮宗不受不施派だけは弾圧されたのですが、他宗との共存ができる宗派は自由に任されていたようです。そこに他宗教は激しく排斥するキリスト教が正体を現したのですから政権も対抗せざるを得なくなりました。
島原の乱でも寺社の破壊と僧侶の迫害は多数起こったようです。また、初期に代官に談判をする場合にも信仰の件だけを話し、年貢の取立てのことなどは話題としていないと言うこともあったようです。
原城に立て篭もり最後には玉砕した信者は最後の審判を意識していたようです。このように、これは完全に宗教の戦争でした。

戦国時代には大名同士の闘いのほかに宗教勢力も最後の実力行使をした例が多数ありますが、江戸時代にはいりキリスト教は禁止、その他の仏教は人民統治の道具となり宗教の力は落とされたようです。