爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「新日本人の起源 神話からDNA科学へ」崎谷満著

分子生物学から研究を始めて長崎大、京大で研究をされたあと、自らCCC研究所(Institute for Cross Culutural Communication)を設立した崎谷さんが最近の科学的な日本人起源研究の成果についてまとめたものです。

以前に埴原らの人間の形質をもとにした二重構造モデルに関する解説を読んだ時には、それ以前の原始的な日本民族単一説を大きく覆す説に驚いたものですが、さすがに縄文人、弥生人はすべて同質でそれがパタッと入れ替わったと言うような議論は単純化しすぎていたようです。
発掘された遺骨からもDNAが抽出され分析できるような技術が発展してきたために、科学的な分析が急速に進むようになりました。その結果、本書に詳しく述べられているように縄文人などという同質の人々が日本列島に広がっていた縄文時代と言うもの自体の存在も怪しいもので、さらに弥生人といった人々が大挙渡ってきたと言うようなことも無かったと言うことが明らかになってきたようです。

人類の種というものも見た目の違いから大きく考えられてきましたが、遺伝子的に見ればほとんど差も無くおよそ20万年前にはアフリカに住む一つのグループだったようです。それがアフリカを何らかの理由によりパラパラと出て行き、少々異なる外見となりましたが、とてもそれは人種などといった区別がある程度まで変わったものでもないようです。
DNAで分類されるハプログループと言う用語を著者は頻繁に使っていますが、これは外見から分類された従来の人種と言う概念とは相当異なるようです。すなわち、形質的に見て相当異なるために起源が異なるとまで考えられたコーカソイドモンゴロイドネグロイドのそれぞれの中にハプログループとしては共通のグループがそれぞれ存在していると言うことです。例えばハプログループDEと呼ばれるものはネグロイドアンダマン諸島原住民に多く存在しているが、日本人にも存在し、ギリシア人、サルディニア人にも含まれるとか、ハプログループFTはウェールズ人に多いがアメリカ先住民にも多く、カメルーン住民にも含まれると言ったものです。
そういった状況の中で、日本人というのは非常に多様なDNAを持っていると言うことです。

約6万年前にアフリカを出た人間は3つのルートに分かれて世界中に広がっていきました。南ルートはインドからオセアニアに、北ルートは中央アジアからシベリアへ、西ルートは中東からヨーロッパへという具合です。
この辺の研究には成人T細胞白血病ウイルスおよびピロリ菌の系統研究が非常に役立ったそうです。
これらの研究成果から、以前の二重構造モデルで言われていたような南ルートの人間の北上はどうやら日本までは及ばなかったと言うことが明らかになったそうです。

日本への人間の移動はどうやら北ルートから、何度にも分かれてやってきたようです。この当たりの事情はDNA分析によって長足の発展を果たしてきたようで、最初はミトコンドリアDNAから始まりましたが最近はY染色体の分析も行われるようになりました。中国の研究で、長江付近の古代の住民はミャオ族などのモン・ミエン系という従来の伝承はやはり確かだったかということや、タイ系の住民が広がっていたということもあるようです。

日本列島の遺跡から見られる古代遺骨の分析ではDNAハプログループの様々な多様性が特徴のようです。全世界的に見て日本にしか存在していないD2とC1というグループが高頻度に見られると言うことのほかに、世界的に遠く離れた分布を示すいくつかのグループが並立して見つかり、その多様性を現在まで維持しているというのも大きな特徴のようです。これは中国の漢民族の圧倒的な発展によってO3というハプログループだけになってしまっているような状況とは大差があります。

二重構造モデルで言われていた「南方系旧モンゴロイド」というものはほとんど日本には入ってこなかったと言うことが明らかになってしまいました。それとともに「北方系新モンゴロイド」という概念も怪しくなってきました。どうやらそのような同質の集団というものも無かったようです。さまざまなグループの人々がパラパラと入ってきたと言うことでしょうか。
日本に入ってきてからと言うことでも、その各地の状況はとても縄文・弥生などと一まとめに言えるようなものではなかったということです。アイヌ琉球は相当違いが明白ですが、琉球でも北と南では大差があるとか。日本列島中央部といっても九州と西日本・東日本では大きく差があるようです。

なお、文化的に土器を見てみると「縄文」と言われる模様はユーラシア東部の広い地域に見られるものの、日本列島中央部から九州には逆にそれが見られないと言うことです。縄文模様を拒む勢力があったのではないかという著者の意見です。その後、極東や中国東北部では縄文土器が衰退していったのに対し、北海道ではそれが残り、さらに徐々に東日本に広がっていったと言うことが起こったと言うことです。
そのような意味で、「縄文時代」という呼び方は不都合であるとして著者は「新石器時代」と呼んでいますが、その新石器時代には農耕が開始されたと言うのも特徴的なことです。日本では農耕と言うと稲の水耕ばかりがクローズアップされますが、多種の栽培作物による農耕文化は新石器時代に開始されており、シソ、エゴマ、豆類などの栽培が始まっていました。これは中国から伝わったようですが、クリの栽培は独自に始まったのかも知れません。
粟や稗の雑穀栽培も中国華北から朝鮮半島を経由し九州から各地に拡大したようです。
水稲農耕は9000年前に長江流域で始まったようですが、約4000年前に寒冷化したことで華北から多くの人が流入したことで長江の稲栽培の人々が四散したということが日本への水耕栽培の伝来につながったようです。

このように、「縄文」という用語は不適当という点は著者は繰り返し強調しています。縄文土器は日本だけのものではないこと、逆に九州を中心に縄文がまったく無い土器が多いこと、その頃の日本列島の文化は各地で非常に大きな差があること、さらに人々も同一とはいえないばらばらの集団が多いことなどから、従来の縄文という用語は適さないと言うことです。

日本列島の大きなジャームセンター(人々の集団の起源とも言うのでしょうか)には2つの流れがあり、一つは九州北部だそうです。もう一つはアムール川から南下した北海道です。そこから派生した10のクラスターがそれぞれ独立性を保ちながら発展してきたと言うことのようです。

著者は言語学的にも深く研究をされているようで、日本語をめぐる考察にも大きなページをさいています。これもこれまでのような京都からの言葉の伝来の距離差によって方言ができたなどという単純なものではなく、元々別の言語がありそれが徐々に統合されてきているもののまだ大きな差があるというものです。
それによると元来、アイヌ語琉球語、九州語、西日本語、関西語、東日本語というのは始まりがまったく違う言語から来ており、いまだにその影響が残っているということです。
九州語がその後の日本語の形成の元となり、母語と言えるものだそうです。琉球語も九州語から分かれたと考えられるそうです。西日本語も九州語からの大きな影響を受けていますが、関西語というものは相当大きな違いがあります。その後の政治体制により関西語が多く資料として残っているために日本語に与えた影響も多いのですが、どうやらその経緯は単純なものではないようです。
東日本語はさらに大きな問題点を持っているようです。先に述べたまったく異なる系統のプロトアイヌ語の影響を強く受けていると言う由来もあり、発音・文法も相当違うものを含んでいます。それが明治維新以降日本語の主流部分を占めるようになったために言語学そのものの方法論にも大きな乱れができてしまったということです。
東京方言を「共通語」と思い込まずに、正当に各地の方言の研究・評価をしていかなければならないという著者の指摘は妥当でしょう。

日本人・日本文化・日本語について、従来の観点とはまったく違う「多様性」というものの存在が明らかになっているようですが、ますます複雑で分かりにくくなってしまっているという感も強まります。「一言で言って」ということがまったくできないということだけは分かりました。
著者は研究者としても非常に優れた人なのでしょうが、この本も一般向けに読ませるというものではなく研究論文として正確を期すということが主になっているように感じます。術語が専門的であるということもありますし、研究論文としては当然なのですが、引用文献は著者と発表年だけ記して中味はほとんど触れないと言うのも特徴的です。研究論文では冗長を避けるために必要な作法なのですが、一般向け書物では誰もが引用文献を揃えてから読むわけではありませんので、ちょっと不親切かも知れません。

まあ、相当目から鱗が落ちた想いがします。