爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「文科省が英語を壊す」茂木弘道著

著者の茂木さんは学者ではありませんが仕事で外国との折衝が多かったところに入ったのが縁で英語を良く使うようになりその後英語学習についての評論や翻訳もこなすようになったという方です。

この本は2001年出版ですのでゆとり教育最盛の時代ですが、その後路線変更といっても改善されたということはなく状況はさらに悪化しているようです。

よく言われているように、以前の受験英語は英語を使うということに関しては役に立たないので会話主体にするとか、子供も小さい頃から英語に触れさせなければならないとか言う意見が多く、それにしたがって小学校からの英語授業が増やされたりネイティブスピーカーを各学校に配置したりという施策が行われていますが、そのようなものはほとんど意味の無いことだというのが著者の意見のようです。

著者の一番の主張は、「日本からの意見発信をもっと増やすこと、そのための英語力を付けることが大切」というものです。まったく正論でしょう。
”そのための英語力”とは、英語の授業でやりたがっているようなハンバーガー屋のやり取りではありません。そのようなものがもし必要(急に海外旅行に行くことになった)になったとしても即席の海外旅行会話ブックというものをちょっと見れば十分ということです。そうではなく、きちんとした単語の意味を捉え、文法もしっかりと覚えなければいけません。現在はインターネットで発信することが多いので会話力というよりは作文力の方が大切になってきているということです。

そのために必要な英語の授業は今の改革ではかえって以前より失われており、基本の文法力が身につかず大学まで来てしまう学生が多いようです。

TOFLEの成績が日本は非常に低いということもよく言われていることですが、その中味も発表されているのにそれについて触れる人は少ないようです。実は総点が低いというのも確かですが、その中でも文章の読解力が低いというのが表れているそうです。聞き取り能力や会話力よりもさらに顕著だそうです。これが分かっていながらなぜ会話重視になるのかと著者はいぶかっています。やるべきは文法を教え長文読解を教え、単語を覚えさせることではないかと。

文科省の方針として、「英語を使える日本人」というものが上がっていますが、それもどのような場面を想定しているのかということで大きな錯覚があるのではということです。日本にやってきた外国人をすべての日本人が英語で迎えるという必要は全くありません。そもそも日本人の多数が英語を使うという状況ではありません。しかし、一部の日本人はこれまでより高度な英語操縦能力がなければならないということになっているのも確かです。
それを両方うまく満たすような教育というのは困難です。それなら義務教育ではしっかりと基礎だけを叩き込んで、必要な人間は自分でそれ以上の教育を選んでいくという方が効率もよく無駄もないでしょう。

私も理系から技術職をやってきましたので、最先端の英語文献を読むということは否応なくやらざるを得ませんでした。ある程度はそれで読みこなしたつもりですが、会話についてはほとんど自信がありません。一度だけ学会発表でアメリカに行きましたが、しどろもどろでした。もちろん自分の研究をどんどんと発表していくほどのレベルの人ならさらに英語力も必要でしょう。それぞれの程度次第です。

著者の意見では、そこそこの英語発信ができるためには単語数では10000語が必要、そのための英語学習時間は2000時間が必要ということです。ゆとり教育では中学で約1000語、高校で1300語しか習いません。学習時間も中学では300時間しかありません。学習時間は以前の教育課程でも少し多かった程度なので、圧倒的に足りないのは事実です。「受験英語は役に立たなかった」というのは間違いで「受験英語でもまだ勉強不足だった」というのが当たっているようです。
これまでの受験英語というものは否定されるべきものではなく、さらにしっかりと「高度な英語の入り口」を教え込むというのが教育英語のあるべき姿だという著者の意見に賛成です。