爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「人を襲うクマ」羽根田治著

山に食物が少なくなったためか、クマが人里にまで出没することが多くなり、人的な被害も出て死者も発生しています。

そのようなクマとの遭遇事例を詳述し、さらにクマの生態学者である山崎晃司さんの解説も加え、被害を少しでも小さく止めようと書かれた本です。

 

本書は4章に分かれており、第1章は北海道日高のカムイエクウチカウシ山におけるヒグマ襲撃事故、第2章は秩父地方の猟師に取材した秩父のクマの今、第3章に近年のクマ襲撃事故の6例の紹介、第4章に山崎さんの解説によるクマの生態と遭遇時の対処法という構成になっています。

 

第1章の日高での事故例は、少し古いものですが1970年に福岡大学ワンダーフォーゲル部の登山時にヒグマに襲われて3人が死亡したというものです。

当時はまだクマが出没するという情報もそれほど広く報道されておらず、クマに対する注意がさほど行き渡っていなかったという事情はありますが、クマをちょっとでも見かけたらすぐに退避し下山するという決断が遅れたために大きな被害を出してしまいました。

しかしクマはもともとはそれほど攻撃性が強い動物ではなく、相手から攻撃されたと感じた時のみに反撃するだけなのですが、場合によっては強い攻撃の執念を持つこともあり、危険性がかなり強いようです。

 

第3章の最近の事例を見ても、さほど高山や深山といったところだけでなく、人の多く通る場所でもクマの出る危険性は増えており、注意が必要だということです。

なお、ちょっと衝撃的な話ですが、襲われた人がクマに食べられるという事例も報告されています。しかし、社会的に大きなショックが広がることを怖れ、ほとんど報道では触れられていないということです。

ただし、クマが「ヒトを食べるために襲う」のか「たまたま襲って人を倒した後に食べた」のかを判断することは非常に難しく、その点も報道をためらわせる理由となっているようです。

 

クマの食物となるものが山間部に減っており、人間に由来する食べ物などを狙ってクマが出没する例が頻発しています。

特にキャンプ場での残飯などはクマを誘引する危険性が非常に高く、それに味を占めたクマがキャンプ中の人を襲って食物を奪うという事例もあり、注意が必要です。

そればかりでなく、最近では柿などの果樹もあまり収穫することも無く放ってあることが多いのですが、これもクマの食物となる可能性が強いため、残しておくのは危険だということです。

 

第4章の山崎さんによる学術的な解説はなかなか興味深い内容が含まれていました。

現在世界には8種のクマ類が生息しており、日本にはそのうちのヒグマが北海道に、ツキノワグマ(アジアクロクマ)が本州と四国に生息しています。

ただし、それらのクマも一種だけでなく遺伝的にはそれぞれ3系統があることが知られています。

日本列島に入ってきたのは50万年から100万年前の時代で、入ってきた当初はヒグマとツキノワグマは分かれることなく同所に住んでいたことが判っており、その後北海道とそれ以外に分離したようです。

クマ類は雑食性ですが、特に現在のクマは草食性に偏った雑食性と言えるようです。

しかし、その消化器官は食肉類という生物学的分類にふさわしいもので、完全な植物食性は獲得していません。

そのため、時には肉食をすることもあるようで、シカの幼獣を食べた形跡が見られることもあります。

 

クマは冬眠をするというのが一般的ですが、その前に大量の食物を摂取しなければならず、それができなかった場合は冬眠に入ることができません。

これを誤解して「温暖化のためにクマも冬眠しなくなった」などと言われることがありますが、そうではなく非常に空腹となったクマが冬期に出没するということで、危険な状態と言えます。

 

クマは本来攻撃性は低いとはいえ、その力は強力で爪による破壊力も強く、襲われれば人間などはとても対抗できません。

特に顔面をめがけて攻撃してくるので、とにかく腕で頭を抱え込み地に伏せてクマの攻撃が終わるまで耐えるしかないようです。

逃げようとしてもクマは非常に速く走るためほとんど不可能です。

山に入る時には鈴を鳴らしたりラジオをかけるという話もありますが、それによって刺激されて攻撃されるということもあるようで、クマのいる気配を感じ取り近づかないようにするということが大切です。

 

少し前には、捕らえたクマも深山に放すということがあったのですが、現在ではヒグマは100%、ツキノワグマでもほとんどが殺処分されるようです。

クマを人里に呼び寄せないように対策をしっかりとすることが大切なのでしょう。

また、人が山に入る際も細心の注意を払うことが必須だと言えます。

 

 

「池上彰の メディア・リテラシー入門」池上彰著

リテラシー」とは「読み書きの能力」ということです。

したがって、メディアリテラシーと言うとテレビや新聞、インターネットまで含む「メディア」というものを理解する能力ということになります。

新聞やテレビだけでも読みこなす能力がなければ無批判に信じ込んでしまうこともありますが、さらにインターネットなどその信頼性が疑わしいものまで受け入れてしまうと大変なことになりそうです。

 

こういった、メディアとの付き合い方というものを解説しようという本ですが、まあそんな難しいことができるかどうかと思うところですが、そこそこ上手く説明しているかなといったところでしょうか。

それでもそれ以外の部分(放送の裏話等)もかなり含まれており、そこはあまりメディアリテラシーには関係ないかもしれません。

 

最初の部分「テレビ」のところで、「すべては編集されている」というのは、意外に勘違いしている人も多いのかもしれません。

ドラマやバラエティが編集されているというのは当然と思うでしょうが、ニュースでもそうだということは、覚えておいた方が良さそうです。

 

ニュースキャスターという人も出てきますが、これが「アナウンサー」なのか違うのかも間違えそうです。

ただし、アメリカのニュースキャスター(アンカーと呼ぶ)と日本ではかなり違うところもあるようで、アメリカではそれはほとんどがベテランの記者が務め、番組全体を取りしきる権限があるのに対し、日本ではそういった例は少ないようです。

 

新聞の事情も日本とアメリカとでは大きく違い、日本には「全国紙」「ブロック紙」「地方紙」があるのに対し、アメリカには日本の全国紙のような発行部数が多いものは無いようです。

ただし、現在の新聞はいまだに宅配によってほとんどが維持されており、その経費は大変なものだとか。

現在は購読者がどんどんと減っているため、新聞の経営も非常に厳しくなっており、今後さらに苦しくなるようです。

 

新聞なんてどれを読んでも同じようなものと思っている人が多いのでしょうが、実際にはかなり違うところがあります。

アフガニスタンで一度は壊滅したタリバン政権ですが、その数年後の記事で大きな書き方の差がありました。

2006年の朝日新聞では「タリバーンは政権は崩壊したが残存勢力が潜伏し新メンバーを加え力を蓄えている」と書かれているのに対し、読売新聞は「タリバンは大きな打撃を受け、新兵の徴用も難しくなり先細りとなる」と書いています。

先の見通し次第で書き方にも大差ができ、読者の受ける印象も変わってくるようです。

 

やはり色々な手段で情報を集めて比較するということが必要になるのでしょう。

 

 

「12人の浮かれる男」筒井康隆著

SF小説家として有名な筒井さんですが、若い頃から俳優になりたかったということはよく知られていることだと思います。

巻末の解説に、演出家の川和孝さんが書かれていますが「筒井康隆氏は喜劇役者になりたいと思い出したのが小学校4,5年の頃」だったということです。

 

その思いは小説家となってからも止むことはなかったようで、自分が舞台に立つということもあったかのように思いますが、それだけでなく演劇の原作、戯曲も書いています。

そういった作品を集めたのがこの本です。

「12人の浮かれる男」「情報」「改札口」「将軍が目醒めた時」「スタア」の5本ですが、いずれも70年代から80年代にかけて実際に上演されているものです。

 

冒頭の「12人の浮かれる男」とは言わずと知れた、アメリカのテレビドラマ(その後映画としても製作)の「12人の怒れる男」を意識して書かれたものですが、雰囲気はまったく違ったものとしています。

 

「将軍が目醒めた時」というのは、昭和初期に有名だった蘆原将軍(蘆原金次郎)を扱ったもので、彼は実際には中途で正気に返っていたという設定とし、それでも利用しようとしていた新聞社や軍部を戯画化しています。

 

私自身は演劇というものはほとんど見たことも無く、あまり興味もないのですが、確かにこういった劇であれば見ても面白いかもとは思わせるものです。

ただし、それでも劇場に出ていく気になるかどうかは微妙なところですが。

 

 

「もの忘れの達人たち」トム・フリードマン著

年を取るともの忘れがひどくなると言いますが、忘れること自体は若い人たちでもしばしば起きることです。

大事なことがすっと出てこないという経験をすると、がっかりして自己嫌悪に陥るかもしれませんが、そういう時にこの本を読むと、天才、偉人といった人たちでもひどい物忘れをしたということが判って、少しは救いになるかもしれません。

 

アメリカのライターだというフリードマンさんなので、出てくる偉人たちは日本人にはあまり馴染みのない名前も多いのですが、おそらく「田中角栄さん」だとか、「湯川秀樹さん」といったあちらの人にとってはすぐわかるような有名人なのでしょう。

 

そんなわけで、辛うじて知っていた人のエピソードをいくつか。

 

ロンドンフィルの創立者の一人、ビーチャムはロンドンのホテルで立派な身なりの女性に出会い、見覚えがあったので話しかけました。

誰かということが思い出せなかったのですが、そのうちに彼女には兄弟がいたような記憶があり、「ところでお兄様はお元気ですか」と聞きました。

すると彼女は「ええ、元気で今も国王をやっています」と答えました。

彼女は国王ジョージ6世の妹メアリー王女でした。

 

デンマークの物理学者、ニールス・ボーアは1922年にノーベル賞を受賞したが、若い頃はサッカー選手としても優秀で、デンマークの強豪チームのゴールキーパーでした。

1905年のドイツのチームとの試合でゴールの方にボールが飛んで行ったのですが、ボーアはボールの行方を全く見ておらず、地面に計算式を書いて考えていて、ゴールを許してしまい、それ以降ボーアがナショナルチームに呼ばれる可能性はなくなったそうです。

 

まあ、大事なところはしっかりしていればあとはどうでも?良いのでしょう。

 

 

「民族とネイション ナショナリズムという難問」塩川信明著

グローバリズムがますます進行していますが、その一方で民族やナショナリズムというものが強力になっているようにも見える世界です。

しかしそもそも「民族」「エスニシティ」「ネイション」「ナショナリズム」という言葉の意味自体、きっちりと決まっているとも言えないようで、人によって指す対象が違っているようでもあります。

 

このような現状について、国際関係論が専門で特にロシア現代史を中心に研究してこられた塩川さんが、解説をしています。

 

そのような状況ですので、本書もまず第1章は「概念と用語法」と題し、整理を試みています。

さらに第2章以降は歴史的な経緯をたどり、第2章では「国民国家の登場」、第3章では「民族自決論とその帰結 世界戦争の衝撃の中で」、第4章は「冷戦後の世界」と時代ごとに分けて論じます。

最後の第5章で、「難問としてのナショナリズム」と題し、現在の世界でも大きな問題となっているナショナリズムをどうしていけばよいのかを提示しています。

 

用語法の解説の最初は「エスニシティ」から始まりますが、これも人によりその使い方もかなりの差がありますが、ここを決めなければ話が始まらないとばかりに、えいやっと決めてしまいます。

エスニシティとは「血縁ないし、先祖・言語・宗教・生活習慣・文化などに関して、”我々は○○を共有する仲間だ”という概念が広がっている集団」を指すということにします。

ただし、この定義は世界どこでも通用するというわけではありません。

血縁・先祖からいくつも羅列した項目のどれを優先するかということも、集団によって大きな違いがありそれによって集団の定義も揺らぎます。

しかしここを決めておかなければ話が進みません。

 

このようなエスニシティを基盤とし、その「われわれ」が一つの国やそれに準じる政治的単位になるとき、それを「民族」と呼びます。

「民族一歩手前」という集団も多く見られますが、一応広義の「民族」と考えます。

 

「国民」とは何かと考えると、国によって違いが大きく出自や文化的伝統がかなり異なる構成員を含む場合があり、「国民」は必ずしもエスニックな同質性を持つとは限りません。

つまり「国民」と「民族」「エスニシティ」はまったく違う概念であり、次元を異にすると言えます。

ただし、これはあくまでも日本語の用語に関してのことであり、ヨーロッパ諸語においては「ネイション」(英語の場合)は「国民」と「民族」の両方の意味を持ちます。

しかしヨーロッパでも他の言語の場合はそう決まっているわけでもなく、ナシオン(仏)、ナツィオーン(独)、ナーツィヤ(露)の意味はそれぞれの国と時代によってかなり多様なものを含んでいるようです。

 

ネイション、ナショナリティにあたる言葉はヨーロッパ諸語にありますが、そこにエスニシティ的なニュアンスがどれほど含まれているかということは各言語によって差があります。

英語、仏語においてはエスニシティ的な要素はあまり無く、日本語で言って「民族」よりは「国民」の意味に近いようです。

(ただし、国によって差がありアメリカではほぼ完全に「国民」ですが、カナダでは英語系・仏語系のネイションがそれぞれ存在するという概念が強いようです)

これに対し、ドイツやロシアではこの語にかなりエスニックな意味が含まれています。

そのため、英語の場合とは異なりこの語に「国籍」と意味は無く、国籍を表すには他の語を使います。

 

ナショナリズムという問題を考えていくにも、エスニシティ、民族、国民というものの状況によって一概には言えずその違いは大きなものです。

これらを整理するために4つの類型に別けて考えています。

1,ある民族の分布範囲より既存国家が小さい場合。

ロシア人が他の国に多数住んでいたり、セルビア人、ハンガリー人がその名の国家より広い範囲に居る場合です。

2,逆にある民族の居住範囲がそれより大きな国家に包摂される場合。

これはその国において少数民族と扱われることになり、分離独立運動などにつながることがあります。

3,ある民族の居住範囲がある国家とほぼ重なっている場合。

この場合はナショナリズムの問題は起きなくても良さそうですが、やはり起きています。

4,ある民族がさまざまな場所に分散しており、そのいずれでも少数民族である場合。

いわゆるディアスポラで、ユダヤ人の他にもアルメニア人、中国人(華僑)、インド人(印僑)などです。

 

第2章以降では「国民国家」を誕生させた西ヨーロッパに始まる歴史的な背景について説明されています。

典型的な例としてのフランスとイギリスであっても、その事情は大きく異なるということです。

なお、国民国家が始まる前には「帝国」という存在が広く世界を覆っていました。

しかし帝国が解体し国民国家が誕生していっても帝国がなくなったわけではありません。

国民国家誕生以前の「前近代の帝国」、その後の「近代帝国主義」さらにごく最近には「新しい帝国」というものも出現しています。

ここでの説明はヨーロッパ諸国だけでなく、ロシアやオスマン、アジア各国まで例とされており、非常に多くの例を取り上げています。

ただし、分かりやすくなったかというと逆にごちゃごちゃして何が何やら?という感じもしますが。

 

その後の2回の世界大戦、そしてその後の植民地の独立など、民族と国家をめぐる情勢は大きく動き続けます。

そして第5章「難問としてのナショナリズム」になだれ込むわけです。

「良いナショナリズム」「悪いナショナリズム」を区別して考えるのか。

シビックナショナリズム」「リベラル・ナショナリズム」などと言うものも出てきます。

さらに「ナショナリズムは飼いならせるのか」と進行していきますが、これは結局この先どうなるか分からないということなのでしょうか。

しかし現在進行中の国際紛争、軍事衝突でもその多くは民族に関係するとされています。

日本も決してその問題と無縁ではありえず、多くの「国内問題」「国際問題」が直接間接に民族というものとつながっているようです。

 

まあ、この本を読んだだけで正解や打開策が見えるわけではないのですが、少なくとも歴史上、そして世界各地の民族問題というものが見渡せるという意味は大きかったように思います。

 

 

「焼酎一酔千楽」鮫島吉廣著

鹿児島大学農学部に「焼酎・発酵学教育研究センター」と「焼酎」を看板に掲げる組織を持つ国内唯一の大学ですが、それは平成18年度に発足した寄付講座、「焼酎学講座」に始まります。

これは当時の鹿児島大学理事・副学長の竹田靖史氏が薩摩酒造常務であった本書著者の鮫島吉廣氏に働きかけ、業界一丸となっての寄付をまとめて作ったのですが、その講座の初代教授として、当の鮫島氏を迎えることとしたのでした。

鮫島氏は焼酎メーカーに勤務しながらもその学識は卓越していることはよく知られており、最適の人選だったのでしょう。

 

この本はその鮫島氏がちょうど焼酎学講座の教授であったころに、日本電気協会が発行する月刊誌「九州の電気」に6年に渡り連載されていたエッセーに加筆してまとめたもので、焼酎や酒文化といったものについて季節の話題を絡めながら書かれています。

 

平成20年の記事には「事故米」についてのものがありました。

これは、焼酎メーカーに納入された原料米の中に「事故米」と言われるカビや農薬過剰のものが含まれていたという事件で、納入業者が故意に入れていたというものですが、焼酎の風評被害も出ました。

この時に著者が感じたことは、メーカー側と消費者の間にかなりの認識の差があるということでした。

芋焼酎なのに米を使っている」「その原料に外米を使っている」といったことで、生産者側は常識と思っていたのに消費者は何も知らないということに驚くほどだったようです。

この辺の事情も説明されていますが、外米(インディカ米)はジャポニカ米に比べて吸水がゆっくりとしていて制御しやすいというのは、製造者側としては非常に重要なことでしょう。

 

芋焼酎の原料としては、現在ではほとんどが黄金千貫(こがねせんがん)という品種ですが、これもそれほど昔からのものではなかったようです。

戦後、サツマイモからデンプンを取り出す工業が盛んとなり、それに適した品種改良が坂井健吉という方により昭和33年に始められ、ようやく昭和41年に品種登録されました。

デンプン工業用としてはその後は別の品種にさらに移っていくのですが、これを焼酎製造用に使うということが広まり、それが最適ということが判ってどんどんと拡大していったそうです。

この品種の採用により、それまでより香味も良くなり、かつてのような臭い焼酎というイメージから脱却できたのでした。

 

4月に熊本国税局で行われる、「鑑評会」についても書かれています。

南九州4県の酒造メーカーが選りすぐりの酒を出品し、優劣を競うというもので、その審査は国税局鑑定官室と有識者で行われますが、その表彰の際に出品酒のきき酒会も開催され、メーカー技術者などが集います。

芋焼酎は原料の良し悪しが非常に敏感に作用し、有名メーカーでもそれで失敗することがあるというのは厳しい現実です。

 

芋焼酎の製造の現場で興味深い光景が「芋選別」というもので、原料の芋を製造ラインに投入する直前に作業の女性(ほとんどおばちゃんばかりです)が包丁片手に目を光らせて悪いものがあればそこを切り取るということをするのですが、この本の記述によれば、この作業も昔からあったわけではなく昭和40年代に芋焼酎の品質向上を目指す中で始められたものだったようです。

これとコガネセンガンという品種の採用などが相俟って現在のような高品質の芋焼酎が実現できたということです。

 

焼酎に関する様々な知識をそれとなくちりばめられている、面白い本でした。

 

私もかつて本格焼酎製造に少し関わっていたこともあり、焼酎メーカーの製造現場見学や、国税局鑑評会参加といったこともしたことがあります。

鮫島さんの名前も当時から存じ上げていましたが、その後このように活躍されていたとは知りませんでした。

このところ、本格焼酎の売り上げも一時ほどではないようですが、焼酎文化というものは非常に奥深いものがあると感じています。

 

 

「SFが読みたい! 発表!ベストSF 2006年版、2011年版」SFマガジン編集部編

若い頃は盛んに読んだSFですが、このところまったく手に取れなくなりました。

久しぶりに最近の(といっても少し前)ベストSFの評を集めたSFマガジン誌の本を読みました。

 

驚いたことに、と言うか、当然ながら、と言った方が良いのか、取り上げられている小説はほとんど聞いたこともないものであるだけでなく、作者もほとんど知らない。

辛うじて、誌上で文章を書いている人たちの中に知った名前がある程度です。

 

2006年版の方での国内1位の小川一水氏、2011年版の方での上田早夕里氏のどちらも全く初めて聞いた名前でした。

 

「ベテラン作家誌上対談」で出てくる、山田正紀谷甲州鏡明といったメンバーになるとようやく見覚えがあるというところです。

 

SF界としては、さらに範囲が広がり様々なタイプの作品が溢れているというところでしょうか。

その点はかなり変わっているのかもしれません。

 

これを機会に、また少しは読んでみても良いかもとは思います。