爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「結局、ウナギは食べていいのか問題」海部健三著

ウナギがどんどんと減少していき、「絶滅危惧種」に指定されるとかいった話題も出るようになりました。

それでも、価格高騰しているとはいえ夏の土用の丑の日あたりにはスーパーでは蒲焼が並んでいますが、「本当にこれ食べていいの」と感じる人も多いのではないかと思います。

 

そういった一般人の疑問に、生態保全の専門家である海部さんができるだけ簡単に応えようという本です。

 

ただし、「はじめに」にも書かれているように、「ウナギを食べていいのか」という疑問に対する答えはシンプルなものではありません。

本書でも結局、結論は出ていません。

それは、「食べる食べないの決定」は個人の価値観によるものであり誰かが押し付けるものではないからということです。

しかし、その行動を決定するための情報というものは適切で十分なものが必要なのですが、それが今はほとんど得られない状況です。

そういった情報を、この本ではできるだけ分かるようにしたいということです。

 

まず、「ウナギは絶滅するのかどうか」ということです。

日本の環境省や、国際自然保護連合(IUCN)はニホンウナギ絶滅危惧種であるとしています。

環境省でもIUCNでも、ニホンウナギシロナガスクジラやトキと同じレベルの2番目に絶滅の危険度の高いカテゴリーにランクされています。

ただし、ニホンウナギの生息数自体がそれほど正確に捕捉されているわけではありません。

農水省のデータは「ウナギの漁獲量」を見ているだけで、そこには様々な要因が含まれるため資源としてのウナギの生息数は現れません。

また、ウナギの資源保護の活動としてかなりの放流が行われていることも問題を複雑にしています。

養殖場で大きくしたウナギを放流することが多いのですが、それが自然環境で産卵できるかは大きな疑問があります。

そして放流ウナギがまた捕獲されるということが多いため、天然ウナギの生息数が全く分からなくなってしまっています。

 

ウナギの稚魚のシラスの漁や、輸出入をめぐっては違法行為が横行しているという話もあります。

こういった違法行為がウナギの資源減少に関係があるのかないのか。

 

実は、2016年の自民党の水産部会における水産庁の説明で、「闇流通があっても価格高騰にはつながるが、結局は養殖池に入るから一緒」などと言ったという記録があります。

とんでもない話で、漁獲高もきちんと把握できずに資源管理もできるはずがありません。

どうも水産庁など行政の認識も資源管理という面では不十分な面が多かったようです。

 

そもそも、シラスウナギの漁獲高を規制するためにその上限を定めているはずなのですが、昨今の漁獲高はその上限量に遠く及んでいません。

つまり、現在のウナギの生息数を守り増やすために定めるべき漁獲上限量が実際には存在量より多く設定され、そんなものは何もしなくても守っている実態となっています。

いかに行政の認識が及んでいないかを示しています。

 

ウナギでも完全養殖が成功したということです。

それなら、すべてを完全養殖にすれば絶滅の危険性はなくなるのでしょうか。

国立の水産研究・教育機構で、2010年にウナギの完全養殖が成功しました。

しかし、実験室段階の極めて特殊な方法で行なっており、それでは稚魚1匹あたりのコストが数万円かかるそうです。

現在、捕獲した天然シラスの価格はいくら高騰しているといっても1匹数百円程度ですので、コスト的には劇的な方法改善がなければ到底実施できる値段ではないようです。

 

ウナギの生涯というものは、ニホンウナギの場合は太平洋マリアナ諸島近海の産卵場で生まれ、その稚魚が台湾や韓国、日本へとやってきて川を遡上しそこで成長します。

そして産卵期を迎えると再び海を渡って産卵場へいき産卵して一生を終えます。

現在のウナギの生息数減少をもたらしているのは、川に作られた堰やダムといった構造物がウナギの遡上を阻害しているのが主因と考えられます。

そのようなものの中で、すでに効果の無くなっているものは撤去する必要がありますし、できない場合はウナギ用の魚道を整備していかなければなりません。

 

それではウナギは食べてはいけないのか。

ウナギの全国での生息数をきちんと調査し、それが増える程度にコントロールできればそれ以上の分を食用にすることが不可能ではありません。

しかし、クロマグロなどは曲がりなりにも生息数を調査しそれによって捕獲数を決めているのに対し、ウナギではそのような調査すらまともには行われていません。

まずそこから始める必要があります。

しかし、消費者としても今やるべきことがあります。

それは、「違法行為の関わったウナギは食べたくない」と考え、表明することです。

ウナギの関わる業界では違法行為が日常問題となっており、一部で考えられているように暴力団などが関わっているということではなく、ちゃんとした業者が一方で違法行為も手を出すという状況もあります。

そのため、現在では「合法的なウナギだけを食べたい」と考えても無理だというのが実態です。

しかし、少しでもその状況を変えるために、「ウナギ取引の違法行為はいけない」という社会的合意を作るよう、消費者としても監視する必要があります。

 

ところが、一見して合法的な取引を目指すようなポーズだけ取り、実際には違法行為を行う「グリーンウォッシュ」をする会社や組織が多数あるようです。

この見分け方も指摘されています。

1,科学的知見に基づかない取り組み、たとえば石倉カゴの設置やウナギ放流を行ってそれがあたかも資源保護に取り組んでいるかのように宣伝している。

2,シラスウナギのトレーサビリティについて言及しない。

3,「ウナギを守る」ために寄付金を集めている。

こういった会社・組織は避けるべきだということです。

 

いやはや、ウナギ業界というのはまだまだ大変な状況のようです。

しかしそこからきれいにしていかなければ、ウナギの資源回復などは夢物語なのでしょう。

 

 

「絶滅事典」造事務所編著

20世紀末という時代はすでにかなり昔の話になってしまったのでしょう。

その頃にあった「モノ・コト」というものは、多くが絶滅しかけているようです。

私から見ればまだ記憶に新しいそういった事物について、取り上げれば懐かしいと思ってくれる読者もいるだろうという思惑で作られた(ような)本だと思います。

 

扱われている事物はだいたい1970年代から1990年代頃に普通に存在した物ということでしょうか。

1950年代以前、戦前といった時代のものはさすがにそれを見て「懐かしい」と思う世代はもはやかなり鬼籍に入っているのでしょう。

 

そういった事柄を、1生活(衣食住)、2学校、3趣味娯楽、4仕事技術に分けて一つについて1~2ページで記述しています。

 

なお、私にとってはこの時代はすでに青年期を過ぎ会社勤め、結婚、子育てといった頃にあたりますので、もはや「学校」の思い出は少し行き過ぎており、その項はそれほど共感できるものはありませんでした。

 

それではその中で比較的思い出のあるものからいくつか。

 

「だるまストーブ」

これは1970年代はギリギリではないでしょうか。

1965年くらいからは学校でも石油ストーブにどんどんと置き換わっていって、石炭炊きのだるまストーブはどんどんと姿を消していきました。

私の小学校時代(1960年代初め)、小学校は3回転校しましたが、その中で「ストーブがあった」のは1校だけでした。(他は”暖房器具まったく無し”)

その小学校では5年生だったので、石炭の準備から点火消火まで生徒たちがすべて担当していました。暖かかったのは間違いなし。

 

「はだいろ」

これはすでに子供も成年している身としては縁も無く、言われて初めて気が付きました。

私の子ども時代は当然ながら「はだいろ」という絵具、色鉛筆は存在しており、あの「うすだいだい」といった色調のものをそう表現していたのですが、その呼称は人種差別的だという指摘が相次ぎ、2000年頃には「はだいろ」ではなく「うすだいだい」や「ペールオレンジ」といった色名に変更されたそうです。

ただし、現在でも「スキンカラー」と題した色鉛筆のセットを発売している会社があり、それは逆に「様々な肌の色をそろえた」というセットだそうです。

 

「新聞の死亡広告」

これは都会ではもう絶滅なんですね。

熊本ではまだまだ重要な意味を持っています。

本書には「地方では今でも無料で掲載してくれるところもある」なんて書いてありますが、ここでは逆に「止めてくれと言わないと載せられる」に近い状況です。

放っておくと詳細な住所まで掲載されてしまいます。

昨年義父が亡くなった折には、住所の番地記載は止めてもらいました。

なお、10年ほど前に一時仕事で行っていた石川県では、新聞各紙ともに住所氏名だけでなく「遺族からの一言」なんていう欄もあり「明るい母でした」なんていう言葉が並んでいました。それも恥ずかしいと思いましたが。

 

20世紀世紀末なんて言われていましたが、それももう20年以上前、そのあとに産まれた人たちが成人式をやっていたということになります。

時の流れの速いこと。

 

 

「機能獲得の進化史」土屋健著

生物というものは「機能」の獲得によって大きく変化していきました。

新たに獲得した機能によって、その生活自体が大きく変わるということも起きました。

そのような「機能獲得」について、化石などに見られる進化の歩みからその最初の頃の様子を語る本です。

なお、かわさきしゅんいちさん、藤井康文さんのイラストも分かりやすく、イメージを掴みやすくさせています。

 

生物の機能の中から、「攻撃と防御」「遠隔検知」「あし」「飛行」「愛情」のそれぞれについて、どのように進化してきたかと言うことを解説していきます。

 

ほとんどの生物に「食うか食われるか」という問題が重くのしかかっています。

他の生物を食べることでより効果的に栄養吸収をしようという生物が出現し、それに簡単に食べられてたまるものかと防御の方法を向上させてきた。

そういった攻撃と防御のレベルアップの歴史が生物進化の歴史とも言えます。

生物は遅くとも38億年前には生まれたと見られています。

しかしその後長い間、生物は単細胞の微生物で顕微鏡でなければ見れれないほどの大きさのものに止まりました。

それが約6億3500万年前から始まるエディアカラ紀に一気に多細胞生物となり大型になっていきます。

しかしその当時はまだ攻撃も防御もありませんでした。

その当時、生物が動いた痕跡が化石となって残っていますが、そこには海底深く潜るような跡はありません。つまり身を隠す必要がなかったということです。

それが5億4100万年前にエディアカラ紀が終わり古生代カンブリア紀に入ると海底下に深く入り込む痕跡が化石となって残っています。

他の攻撃を受け海底を深く掘り進んで身を隠す必要が出てきたことを示します。

さらに、身体の構造も変えていき外骨格というものが出現します。

この変化は非常に多様性に富んでいたため、かつてはこの時期に多数の生物がいきなり出現したと考えられて「カンブリア爆発」と呼ばれていました。

しかし、実際は生物出現が集中したのではなく、「動物の硬組織化が促進された」すなわち多くの生物が「殻」を持つようになったためと考えられています。

そのために、化石として残りやすくなったため、一見していきなり多数の生物種が出現したかのように見えたのでした。

その前の時代から多数の生物が出現してはいたものの、それらは柔組織だったため、化石にならずに残っていなかったと考えられています。

 

化石になりにくい組織の考古学的解明というのは困難なものです。

次章のテーマの一つ、「眼」というものもそれ自体は柔らかい組織でほとんど化石にはならないので分からないことが多数あります。

辛うじて眼がある部分の外側を骨格が取り囲むためにその空間が空くことでそこに目が合ったと推定できるのですが、よく分からないことも多いようです。

また、最終章で扱う「生殖」についても、オスとメスが最初に分離したのはいつかと言うことも正確には分かりません。

生殖器というものもほとんどが軟組織ですので、化石にはなりにくいものです。

身体の大きさが雄雌で違うことから推定するといった手段を使わなければならないこともあるのですが、それは年代の差と見られる場合もあり化石の発掘数が少ないとその推定もやりにくいということです。

 

なお、主題とは少し関係のない話ですが。

ウミガメの産卵というのは多くの人の興味をひくのか時折ドキュメンタリー番組や動画として報じられることもあります。

その中で良く描かれる場面が「親亀が産卵する時に涙を流す」というところで、出産の痛みなのか子ガメたちのこれからの過酷な運命を思ってなのかと表現されることが多いようです。

しかし実際は「ウミガメはそのそも四六時中涙を流す生き物である」ということです。

ウミガメは海中を生活圏としているため、どうしても体中の塩濃度が高くなり、それを排出するために涙として流しだし、体内の塩分を外に出すということだそうです。

 

鳥類は恐竜の子孫であるということですが、鳥類が産んだ卵を孵化させるために抱いて温めるというのはほとんどの種で行われています。

しかし先祖の恐竜の時代にはそのようなことはできませんでした。

身体の下にしようものなら卵が体重で破壊されました。

最初は「温める」ということ無しに、「自然に温まる場所」に卵を産み孵化させたそうです。

そのため熱帯や地熱のある場所でしか繁殖できませんでした。

それでは困るというので、「植物の発酵熱」を使うという種が出現します。

卵の上に腐りやすい植物を載せることで発酵させてその熱を使ったということです。

その後、鳥類に近づいた種が出現して初めて身体で卵を温めるという手法が採用されるようになったそうです。

 

生物というものは、遺伝子だけ見ていてもなかなか面白さが分からないようです。

 

 

「モンゴルの残光」豊田有恒著

現在の講談社文庫は1999年が初版発行ということですが、それに収められているハヤカワ文庫版出版の際に書かれた著者あとがきが昭和48年、そしてこの作品を著者が最初の長編小説として書いたのがその6年前と言うことですので、昭和42年でしょうか。

かなり早い時期のSF作品ということになります。

 

内容はパラレルワールドと時間旅行を扱い、その変曲点での闘争を描くというもので、最初はモンゴル民族による世界征服が成し遂げられ、蒙古人などの黄人を頂点に黒人、白人と人種差別が大きい社会を描き、そこから抜け出して元帝国の伸長を成し遂げた武宗、仁宗に働きかけて歴史を変えようとしたシグルトを主人公に進められて行きます。

 

社会の最下層として虐げられていた白人のシグルトが、航時機(本作では刻駕と表わされています)に乗って逃れた元帝国で、黄人優先の社会を作り出した元凶と目される武宗、仁宗を殺そうとするものの、彼らに仕えていく内にその人間性に感動し、さらに初期の元朝では白人に対する人種差別もほとんど無いことで、朝廷の中でも皇帝側近として活躍し、・・・という内容となっています。

しかし、彼が皇帝に仕えたこと自体が歴史を変革し、今ある世界へと向かうという筋に進みます。

 

豊田さんが戦前の教育もギリギリ受けた世代であるということもあり、また戦後のアメリカ駐留軍の横暴ということもあり、かなり人種間の軋轢を表に出した作品となっており、現実とは裏返しの黄人優先の人種差別というものを元通り?の白人絶対の体制に変えたのがシグルトだということで、それを知った彼は元朝終焉の時代に戻り元のために明と戦い壮絶な死を遂げるということになるのですが、そこには人種による差別というものの根深さ、そしてこの先まで続くであろうことまで予感させる書き方となっています。

 

時間旅行というもの自体、実在する可能性はほとんど無いのですが、もしもその歴史の結果である人物がその変曲点に戻り別のパラレルワールドへの進行をうながした場合は、その彼自体も存在しなくなるのではないかと思いますが、まあそれを言ったら話が続きませんので良いことにしましょう。

50年も前に書かれたとは思えないほどの作品であったと言えるでしょう。

 

 

「左遷論」楠木新著

日本の会社員にとっては常に意識にあるかのような「左遷」という言葉です。

これは日本独特の風習とも言えるようですが、それを作り出してきた日本における会社組織というものと強く結びついているようです。

著者の楠木さんは生命保険会社に長年勤務し、営業畑と人事関係を両方経験してきたため、こういった問題にはその双方の視点から見ることができるようになったそうです。

 

歴史的に有名な左遷は菅原道真でしょう。

右大臣にまで登ったものの藤原時平の中傷によって大宰権帥になり赴任後すぐに死んでしまいました。

これが有名になったというのは本人が異例の昇進をしたということもあり、また死後にその祟りと言われることが頻発したためのようです。

森鴎外がその本職の陸軍軍医の方でも出世街道を驀進していたのですが、東京から小倉の師団に転任となったものを本人も左遷と認識していたそうです。

これは昇進の上での転任なので栄転ではないかとも言われているようですが、やはり九州まで流されるという意識が強かったのでしょう。

 

欧米には左遷というものはあまり意識されないようです。

同じ職場で役付きを解除されるといった「降格」や、「お前は首だ」といった解職は普通なのですが、日本でいうような「左遷」つまり職位や収入がほとんど変わらないままで違う職種に転任させ、本人が「左遷された」と認識するような異動というものは見られないそうです。

 

それが日本で特異的に発生したのはなぜか。

やはり終身雇用と年功序列、そして新卒一括採用といった日本独特の雇用制度が関係していたようです。

特に大手の金融関係や商社などで見れれたように、同期入社が何十人もいてそれが出世競争とするという中では、誰が一番の出世頭か、そして自分は不本意な部署に異動させられたという意識が強く、また周囲からもそういう風にみられるということもあって左遷という意識が生まれてきたのでしょう。

 

ただし、著者は人事部署も経験していたということで、人事から見た「左遷」についても書かれています。

それによると、人事からはあまり左遷ということは考えていないとか。

それどころか、ある部署を改善しようとして有能な人間をそこに移すということも良くあるのですが、それも本人がきちんと理解していなければ「左遷された」と考えて意気消沈することもあるとかで、難しいところのようです。

 

日本独特とも言えるようなこういった状況ですが、どうやら日本では特に会社の中では仕事と人との結び付きが弱いようです。

というより意識的に弱くして、誰がどこを担当しても変わりなく運用できるようにするということが重視されています。

アメリカではそれよりも経理であるとか企画であるとかいった職種と自分とつながりが重視され、そこから会社内でも別の職種に異動させるということの方が問題視されるようです。

それが転職を容易にするような雰囲気を作っていると言えます。

日本ではそれがないために会社にしがみつくということになっているのでしょう。

 

私は技術系で出世争いをするような同期というのも無かったのですが、それでも会社に勤めている間には意に添わぬ異動というものを何度も経験しました。

しかし、左遷ということではなかったのでしょう。とにかく会社にとってはあまり役に立つ働きをしませんでしたので。

とはいえ、こういった左遷論、今のような非正規雇用が蔓延している世の中ではもう時代が違うという感覚がしてしまいます。

今では左遷どころか「明日から来なくていいよ」で済んでしまいそうですから。

古き良き時代の昔話かもしれません。

 

 

「戦国『おんな家長』の群像」黒田基樹著

「家長」とはその家で一番偉くて決定権を持つ人のことです。

家制度が強固で、家全体として外敵に立ち向かわなければならなかった戦国時代ですが、そのような時代だからこそ、女性が家長を務めなければならないということがよくあったようです。

 

数年前にNHK大河ドラマで「女城主」というものが放映されていましたが、そういった事情があちこちの大名家や国衆家にも起きていました。

(なお、そのドラマの主人公は実際には男性だったという史料が著者の研究で見つかったようで、この本では一言触れてあっただけです)

その事情とは、家長であった男性が病気や戦死などで亡くなり、跡継ぎとなるべき息子などがまだ幼少であるということです。

そう言った場合、家長の男性の正妻(家妻と称しています)が跡継ぎが成長するまでの間家長としての役割を果たさなければなりません。

そのような状態を本書では「おんな家長」と表わしています。

 

こういった状況を証明する史料としては、当人が発給した公文書があるかどうか、そして当時の周囲の他者からの公的な書簡などでその女性を家長として遇しているかどうかが挙げられます。

このような史料が見つかった場合にはその女性が「おんな家長」であったと言えるということです。

 

戦国時代でも初期の頃では「家宰」と呼ばれる立場の臣下が居るかどうかも影響してきます。

そのような有力な臣下が居れば女性を家長としなくてもなんとか家を保つことができたのですが、戦国時代後期には臣下にそのような強力な者を作らないようになったのか、そういう存在が見られなくなります。

そのために「おんな家長」が出現するのがその頃からに目立つようです。

 

本書ではそういった「おんな家長」となった戦国大名や国衆という、比較的大きな家の女性たちを18人取り上げています。

もっと小さな家にはさらに多数の女性たちが居たかもしれませんが、はっきりとした史料が残っている場合は少ないようです。

特に多かったのが東北地方であり、やや小さい国衆家だけでなく岩城氏、芦名氏といった大きい家でも居たことが証明されています。

これに何か地域的な要因があるのかどうか、はっきりはしていないようです。

 

家としては最大にして、そして最後の「おんな家長」と言えるのが浅井茶々です。

これは普通は「淀君」と呼ばれる、浅井長政の長女で秀吉の妻となった女性ですが、実は「淀君」という呼称は当時は使われていないため、父の氏の浅井に、これは確かな名前である茶々を組み合わせて使っています。

なお、茶々が秀吉の「側室」であったと普通は見られていますが、そうではなく正妻の一人だったと見られます。

呼称も「御上様」「「北の方」「北政所」「御台様」などと呼ばれており、正妻という立場であったのは間違いないようです。

北政所といえば秀吉正妻の「ねね」であろうというのが普通ですが、これも別に固有名詞ではなく正妻が複数いれば使われていたようです。

それでも格はやはり「ねね」が上だったのですが、同時に大阪城に居た際には「両御台様」と呼ばれていました。

しかし秀吉死後の慶長9年9月に寧々は京都に去り隠居したと見られますので、それ以降は茶々が家妻の立場となり、秀頼がまだ若年であったためにおんな家長となったと考えられます。

その具体的な執政の事例はよくわかっていませんが、片桐且元が家老であったためにある程度は任せたものの実質的な決定は茶々が行っていたと思われます。

しかし、茶々の行政能力はほどんど未熟なものでありとても羽柴家を支えていけるものではありませんでした。

さらに片桐且元をおそらく徳川家の謀略で追放することになってしまい、滅亡に向かうこととなりました。

 

「おんな家長」の時代はこれを最後にまったく終わってしまいます。

江戸時代の幕藩体制では大名家だけでなくどんな武家の家でも女性が主となることはできませんでした。

さらにその最後の象徴的な例であった羽柴家の茶々の能力が極めて低かったとみなされることが、女性の行政能力自体を認められないとする次代の雰囲気を作ることにもなったようです。

それが今に至る日本のジェンダーギャップにも影響を与えているかもしれません。

 

 

「漢字とは何か 日本とモンゴルから見る」岡田英弘著、宮脇淳子編・序

中国を中心としたアジアの歴史から、世界史までを見据える歴史観を持ち、これまでの概念を覆すような著書を数多く著した岡田英弘さんですが、2017年にお亡くなりになりました。

岡田さんの著作の中には、特に「漢字」というものに着目しそこから様々なことを見出したものが数多くありました。

そういった著作を岡田さんの弟子にして夫人でもあった宮脇淳子さんがまとめて一冊の本としたものです。

 

その出典は1970年代から亡くなる直前までと非常に長い期間にわたったもので、また内容が重複する部分もありますが、それは特に岡田さんが強調したいことであろうと感じられます。

 

第1章では「シナにおける漢字の歴史」(岡田さんはその信条から必ず”シナ”と表しています)と題し、始皇帝による焚書坑儒の時代から現代に至るまで漢字というものと中国人の関わりについて持論を展開しています。

秦の始皇帝焚書坑儒は日本では思想統制の意味が強いと考えがちですが、実際にはとにかく「字体の統一」という意味が強かったということです。

戦国時代には諸子百家というグループの活動が行われましたが、それらの中で用いられている文字も言葉もそれぞれ独自のものであまり汎用性は無かったということです。

それを統一国家として一つのものにするというのが一番の目的でした。

 

それ以前も含めて、中国では多くの民族が入り混じりその言葉も統一性はありません。

これは現在でもそうであり、方言と言われていますが実際にはほとんど別の言語と考える必要があります。

そういった状況で何とか意味をやり取りするために使われたのが漢字であり、そもそも話し言葉を表すような意図はなかったということです。

つまり、現在でも日本人と中国人が漢字を用いて筆談でそこそこ意志を通じることができるのですが、これは中国国内でも昔から同様であり、話し言葉で通訳することは不可能で筆談で済ませていたのだと。

 

さらにそういった漢字の用途の中には「感情表現」ということは入っていませんでした。

そのため、中国の歴史を長く見ても人間の感情を描く小説というものがほとんど発達していません。

その点、日本人はそちらの方ばかりが発達しているようですが、これは漢字を受け入れて仮名を作り出しそれらを上手く組み合わせて色々な表現を可能とした日本語の機能性に大きく左右されていたということです。

なお、「表現ができない」ということは実は「そういう感情の発達も遅れる」ということです。

 

第2章は「日本の影響を受けた現代中国語と中国人」とし、特に明治期から戦前にかけて多くの中国の若者が日本に留学し、その知識を持ち帰り中国の近代化を成し遂げたのですが、それについて魯迅や陶晶孫、郭沫若といった人物の略伝を載せています。

郭沫若はその後中国共産党でも昇進を果たしていますが、人間的にはそれよりも日本人の妻子を大切にした陶の方に共感できそうです。

 

第3章は「文字と言葉と精神世界の関係」です。

精神世界というものは実はそれに用いる言語と文字によって大きく左右されます。

日本人は物を深く考える場合には日本語を用いますが、これは海外に在住し仕事などではその土地の言語を使う場合でも多くはそうします。

しかし国によってはその言語が未発達で外来語(英語など)で物を考える人がいるところもあります。

マレーシアはその例であり、建国当時から華人やインド人が多い中で自国の独立を成し遂げるために比較的少数のマレー人の言葉を公用語としました。

しかし、マレー語というのは経済的や学術的にはまったく未発達の言葉であったため、無理やりそれらを創作していきました。

とはいえ、なかなか完成には至らず教養ある人々の多くは英語で物を考えることになっているようです。

 

これは実は大和時代の日本でも同じだったのではないかと岡田さんは見ています。

倭国倭人が住み倭の言葉があったかのように考えられていますが、実際には多くの中国や朝鮮からの渡来人が主流であり、その中でわずかに倭人が居たというものでした。

そこでかなり人為的に作られていったのが日本語だったということです。

その作成の過程は万葉集を見ても分かることであり、その時代によって表記も変わっていき徐々に安定化していくのが見えるそうです。

 

岡田さんの主張は一般的な学説、定説とはかなり違いがありますが、ここに真実があるのではと思わせるものがあり、興味深いものです。