爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「力学入門」長谷川律雄著

力学とは物理学の一部門ですが、感覚としては物理の主要な部分であると感じます。

しかし中高でごく基礎を学び、大学でも教養でわずかに学んだだけでとても十分に理解できているとは言えませんでした。

それでこの本を読んでみたのですが、やはり理解しづらいと感じてしまいます。

微分積分方程式やベクトル、行列式など、数学で跳ね返されたように感じるものが続々と出てきます。

まあ重要であることは分かるのですが、やはり難しいというものです。

 

あとがきに記されていた「力学の基本の要約」というのを引用しておきます。

1力学の主要な理論はニュートンの3つの運動の法則と万有引力の法則だが、これらと共に物理量の性質を知る必要がある。

2力学の基本的な対象は質点の並進運動と剛体の回転運動である。

3これらの運動は力や力のモーメント(トルク)が関係する部分と関係しない部分とに分けられる。その各々とダイナミクスキネマティクスという。

4並進運動のダイナミクスの基本はニュートン運動方程式である。力がゼロである場合は運動量保存の法則が成立する。

5実際に働く物理的な力には性質の違う2種、すなわち普通の力と万有引力がある。

6並進運動の物理量はスカラーとベクトルだけなので3次元の運動は3つの座標軸成分に分解して計算できる。

7回転運動のダイナミクスの基本はオイラー運動方程式である。トルクがゼロの場合は角運動量保存の法則が成立する。

83次元の回転運動のダイナミクスでは慣性テンソルが3つの成分を持つためトルクベクトルと角加速度ベクトルの方向は一致しない。またトルクがゼロの場合でも角速度は保存されない。さらに高速回転している剛体についてジャイロ効果という現象が起きる。

93次元の回転運動のキネマティクスに関係する姿勢はベクトルではなく直交テンソルのため、平行四辺形の法則を使って合成できない。また各軸成分の運動が独立でないために、コーニング効果という現象が起こる。

 

引用しましたが、これらを理解できているというわけではありません。

 

なお著者の長谷川さんは大学終了後に宇宙開発にも従事したという経験があり、この本でもロケットや宇宙といった例を使っての説明が多かったようです。

それはそれで分かりやすくなっていたのではないでしょうか。

 

 

「『混血』と『日本人』 ハーフ・ダブル・ミックスの社会史」下地ローレンス吉孝著

異なる民族(人種)の男女の間に生まれた子ども「混血」、人々の交流が盛んになれば必ずといってよいほど現れてくるものでしょうが、日本では特に第二次世界大戦後に多く出生してきました。

これは占領軍として日本に進駐してきた主にアメリカの軍人たちと日本女性の間に子供が生まれたためです。

そして混血児問題というのもそこから始まりました。

 

本書著者の下地さんの母上もやはり沖縄で米軍人と沖縄女性の間に生まれました。

そのため著者もその混血という人々、それをめぐる社会といったものに強く関心を持ち大学でもその研究にあたり、この本は学位論文をもとに加筆して執筆したということです。(なお本書表紙の写真の女の子が著者の母上だということです)

 

混血をめぐる時期区分として、戦後を4区に分けて特徴づけています。

第1期(1945年から1960年代)主に米兵と日本人女性の間に生まれた子どもの問題

第2期(1970年代から1980年代)高度成長と欧米文化の強い影響の中、「ハーフ」という言葉が広まり、芸能人スポーツ選手の活躍が目立つ

第3期(1990年代から2000年代前半)日本が国際化を進めるなか、留学生や日系人労働者受け入れなども進む

第4期(2000年代後半から)ネットの広まりで不可視化(見てみないふり)をしてきた人種差別の状況も明らかになる。多文化共生といいながら人種差別の社会構造が歴然と残る

 

また、「混血」「ハーフ」と呼ばれる人もその状況は一人一人かなり異なるため、「位相」(フェーズ)という概念をとっています。

第1位相 日本の軍事基地の存在により生まれた 多くは米軍人軍属と日本女性

第2位相 オールドカマーと呼ばれる、旧日本植民地から日本に移住した朝鮮・台湾出身者と日本人との混血

第2位相 1980年代以降に日本にやってきたニューカマーと日本人との混血

 

この年代区分と位相区分を組み合わせることで複雑な混血を少しでも明らかにできるのではと考えられています。

 

終戦後早い時期から米兵と日本女性の間に子供が生まれ始めました。

その数は明らかになっていません。

この中には買売春の結果であったり、強姦によってだったりといった例も多いのですが、基地で働く女性を米兵との恋愛という場合も見られたようです。

しかし占領時代には日本政府は進駐軍におもねり混血児の問題を取り上げることはほぼありませんでした。

その後占領終了した後も状況は変わらず、日本には人種差別はないという建前のもと混血児に対するいじめなども見て見ぬふりをし、混血児への特別処遇はせず公平に扱うと言いながら何の対策もしないという時代が続きます。

 

しかし実際には地域や学校などでは混血児への差別やいじめは蔓延します。

そこにはいまだ鮮明にあった戦争の記憶、そして家族などに戦死者がいたという人々が多数おり、その敵だった米兵の子どもということでのいじめ発生ということもあったようです。

さらに公的支援というものが事実上皆無の中、エリザベスサンダースホームのような民間施設が辛うじて活動を続けるのみでした。

 

1970年代以降の第2期になると高度経済成長を果たして自信を取り戻した日本人ですが、アメリカ崇拝の嗜好が強化されその中で「ハーフ」という人々への思いも変化してきます。

まだ実際には白人の来日は少なかったためか、その代替として白人ハーフの主に女性だけが芸能界を中心にもてはやされるようになります。

その一方で「日本人論」も盛んになり日本人の特性や長所などが論じられるようになりますが、そこで言われる日本人とはほぼ「男性・大学卒・大企業勤務」だけを指しており、それ以外の人々、特に混血の人々などはほぼ無視されていました。

そのような「日本人」と典型的な(と考えた)「外国人」を二分法で分けてあれこれと差を見つけていただけのものが当時の日本人論だったようです。

 

1990年代以降になると多文化共生ということが言われるようになります。

それ以前は父親が日本人である場合のみ子供の国籍も日本だったものが母親が日本人でもそうなるように国籍法も改正されました。

さらに人手不足が深刻化する中で南米などから日系人を受け入れるということも始まります。

それ以外にもビジネス拡大で世界各国から日本への入国が増えてきます。

しかし「多文化共生」と言われながらもやはり「日本人」対「外国人」で捉えられることが多く、そこでは恣意的に人種というロジックが使い分けられていました。

 

著者はこの論文作成の過程で多くの人にインタビューを行ってきたそうです。

そこで意外だったのが、上記の分類の位相1、すなわちアメリ進駐軍兵士と日本女性との間に産まれた混血児という人々がその地域にはほとんど残っていなかったことだそうです。

余りにもいじめや差別が激しかったからでしょうか、その土地を離れて都会に出てしまったようです。

しかし、多くの人が語っていたのは地域社会や学校、職場での激しいいじめ、差別の実態でした。

相手は差別とは感じていないことがありありと分かる場合でも無意識に傷つけるような言葉を発する人がほとんどだということです。

 

混血の問題というのは日本における人種、民族の意識からさらに人権の問題まで深く関わってくる問題なのでしょう。

なお、本書著者の意向と少し違う意味を感じたのは、これは本質的には外国人への差別意識なのではないかということでした。

ヨーロッパ諸国などと比べると国内に住んでいる外国人というのは在日朝鮮人・中国人を除けば非常に少ないものです。

そんな中で見た目にも明らかに日本人と違うと感じられる混血の人々に出会うと外国人差別というものが膨れ上がるのではないか。

混血の人々の側では別の思いが大きいのでしょうが、対する日本人の問題はそちらの方が大きいように感じます。

 

 

 

「『ポスト真実』時代のネットニュースの読み方」松林薫著

今やニュースを見聞きするのはネットからという人が多くなってきました。

しかしネット上の情報というのはどうやら怪しいものが多いということも問題になってきています。

そのような実情について、かつて日経新聞で記者を勤めその後ネットジャーナリズムを調査研究する学術方面に転じた著者が、詳しく解説しています。

 

本書構成は、

第1章 ネットで変わったジャーナリズム

第2章 ネット情報を利用する前に

第3章 ネット情報の利用術

第4章 高度な読み方、活用法

第5章 メディアのこれから

となっています。

各項目の題をみても、「メディアが提供する7つの価値」「活字離れは本当か」「ネットは訂正を前提としたメディア」「メディアを生態系として捉える」「裏を取る」「裏情報の罠」などなど、面白そうに思える内容が満載です。

 

「活字離れ」などと言われていますが、この場合の「活字」というのは以前の「手書き」に対する概念の言葉であることを意識しなければなりません。

ワープロの登場以降、日記やメモといったものでも一見活字で組んだかのような外見にはなりました。

ワープロ以前を知っている年代の人から見ればその違いは分かっていても物心ついた時にはすでにこういう状況になっていた人はそれに必ずしも敏感ではないかもしれません。

上の年代の人はそういった「活字情報」と「手書き情報」の信頼性にはかなり差があるということが意識の中で身についていますが、それが少し不足しているのかもしれません。

 

生態系というものがあり、多くの生物が一つの環境の中で棲み分けをしつつ住んでいるイメージがあります。

メディアについてもそういった捉え方をするべきなのかもしれません。

新聞やテレビなどの在来メディアがネットメディアに取って代わられるといのではなく棲み分けして共存するというイメージです。

新聞と週刊誌というのは対立しているような感覚かもしれませんが、意外に協力し合っている点も多く、裏で取材協力という例もあるようです。

ネットメディアといってもその中には多くの主体が存在します。

まず旧媒体、新聞やテレビ会社の電子版というものです。

またキュレーションメディアという、様々な情報を集めて一つのプラットフォームで見せるサイトやアプリです。

これにはヤフーニュースやエキサイト、スマートニュース、グノシーなどがあります。

この一部には自前の編集部をもってコンテンツを作るところも出ていますが多くは既存メディアや個人のブログなどからの情報をまとめたものです。

さらにネット専業メディアというものがあります。

バズフィード、ハフィントンポストといったものは日本でも定着しつつあります。

さらに個人のブログ、SNSもこのネットメディア生態系の一部です。

このようなものはその性格も大きく異なり、単純に「ネットメディアは・・・」などとひとくくりで扱えるものではありません。

情報の価値、信頼性も大きく異なります。

ただし、それぞれに存在価値もありますので、一概に否定も過小評価もできません。

 

ネットでは一般人が広く議論をできるのではないかといった幻想があったこともありました。

しかし現状ではそのような期待は大きく裏切られ異なる意見の人々が大きな声で叫び合うだけのような状態です。

ネットでは「議論」ができると考えていたのですが、実際には「討論」だけです。

議論というのは顔を見合わせた間柄だけでしかできないのかもしれません。

それは、話し合うことでお互いが変わっていくことなのかもしれません。

そしてそれが民主主義本来の意義です。

数が多い方が多数決で全部決めてしまうというものとは違います。

何が違うのか、それを話し合いながら変わっていくことが必要です。

ところが、現在のネット上の討論では意見を変えることは悪徳であるかのような捉え方をされ、「主張がぶれない」ことが良いことのように言われます。

実は相手の意見の取り入れられるところは取り入れ、妥協できるものにしていくことが必要なのに、それは全く考えられません。

言い換えれば、民主主義とは誰もが「自分が間違っている可能性」について認めることが前提だということです。

 

1960年代に読まれてきたものにマクルーハンの「メディア論」というものがありました。

しかしそれを今読み返すと少し戸惑う点があるようです。

マクルーハンが論じている「テレビ」「新聞」の性格が大きく変わってしまいました。

彼は新聞やテレビが軽薄だと決めています。

それに対比させているのが「本」というメディアでした。

現在ではどうやら当時の「新聞テレビ」が「ネット」、「本」が「新聞」なってしまったようです。

かつては新聞が軽薄でアナーキー、新聞記者(ブンヤ)といった連中はアウトロー扱いでした。

今のネット情報がそのイメージなのでしょうか。

しかし新聞がどんどんとコンプライアンスを強化していき性格を変えてきたように、ネットも今後変わっていく可能性もあります。

 

新聞社のネット情報が最近どんどんと有料化してきています。

新聞がますます本格的にネット対応をし始めたということなのでしょう。

その情報はキュレーションサイトにも無料ではいかなくなります。

情報の確実性は上がりますが、有料は困る人も多いでしょう。

私もそうです。

 

 

「鳥獣戯画のヒミツ」宮川禎一著

京都の高山寺に伝わった鳥獣戯画は日本漫画の祖とも言われており、教科書にも掲載されているため誰でも一度は目にしたことがあるでしょう。

ウサギやカエルが相撲をとったりする絵で有名です。

 

これがどのように描かれたか、鳥羽僧正が作者という伝説もありましたが今ではそれを信じる人は少ないようです。

 

作者も含めこの鳥獣戯画には多くの不明点があるようです。

それを考古学者の著者が推理し、大胆な仮説を披露するというものです。

 

鳥獣戯画には4つの巻がありますが、もっとも有名で動物が人間のようにふるまうというのが甲巻と呼ばれるもので、これが中でも最古の成立とされています。

主にこの巻について解析していきます。

 

本の最初に掲載されているのが、「名場面集」というものです。

岩から背面ジャンプするウサギ、鹿の背に乗るウサギ、サルに鹿と猪が献上される、カエルがひっくり返る、カエルがウサギの耳にかじりつく、ウサギが投げ飛ばされてひっくり返る、といったもので、なんとなく記憶に残っているかもしれません。

 

こういった場面には「なにか意味があるのか」

もしかしたら楽しそうだからそれでよいと考えられてきたのかもしれません。

しかし仏教関係の文書をあれこれ調べてみると同じような構成、構図のものが出てきます。

そこから鳥獣戯画の意味というものも推察できるのかもしれません。

 

最初に著者が思いついたのが月世界とウサギというテーマです。

月にはウサギというのはアジア圏全体に見られる構図です。

それならカエルはどうなのか。

これも中国古代には月にカエルという伝説もあったようです。

 

しかし様々な文献に当たっていくと他の要素にも気づきます。

今昔物語は平安時代の成立ですので鳥獣戯画を作った人たちにもなじみがあったことでしょう。

その中にウサギを扱った説話もあるのですが、これがどうやら大唐西域記に由来する部分が多いようです。

大唐西域記はあの三蔵法師玄奘の話をまとめたものです。

そして鳥獣戯画に見られる動物の性格づけが今昔物語ではなく大唐西域記に近いということです。

その観点から見ると鳥獣戯画に現れる象徴的な動物たちは釈迦であったりする可能性もあります。

 

そしてその他の要素も考え併せていくと、ほかならぬ高山寺開山の明恵上人がこの鳥獣戯画の成立にも深く関わっていたのではないかと推論できるということです。

もちろん明恵上人は絵を描いたという話は伝わっていないため、本人が直接描いたのではないでしょうが、絵師を指図して作らせたのではないか。

 

その過程の中では当時法然上人の浄土宗を明恵上人が厳しく批判していたことも関係してきます。

鳥獣戯画の中でやっつけられる動物に法然が反映されているのではないか。

 

もちろんこういった推論は著者の意見でありまだ学界や世間の賛同を得ているとは言えませんが、こうして本まで出して主張しようというのはかなりの自信を持っているということなのかもしれません。

 

 

「リスクの世界地図」菅原出著

世界のあちこちで緊張が高まり、犯罪の危険性も増加しています。

観光旅行にも大きなリスクがあるのですが、それ以上に問題なのがビジネスで出けたり滞在したりする場合で、そういった人々が犯罪などに巻き込まれることも多発しています。

 

少し前の事件ですが、2013年にアルジェリア天然ガス開発施設で起きたテロ事件では日本のプラント会社日揮の社員など多数の人々が殺害されました。

しかしあまり知られていないことかもしれませんが、当時そのプラントには他国の派遣員も数多く働いており、イギリスのBP(ブリティッシュ・ペトロレアム)からの社員も多数いたものの、犠牲になった割合は少なかったようです。

BP社は自社のセキュリティー体制については一切明らかにしていませんが、生き残った社員から証言を集めることによりその一端を知ることができます。

 

BP社はこのような危険地域に社員を派遣する場合には周到な訓練を施し、詳細を定めたマニュアルを叩きこみます。

この事件の際も水を持ってあらかじめ決められた秘密の場所に隠れたがそれはマニュアルに従ったと話しているそうです。

そして英国政府もこの状況をすぐ把握したのですが、何人のイギリス人が隠れているか(行方不明か)などは一切公表しませんでした。

この発表をテロリスト側も見ることは承知の上です。もしも何人かが隠れているとテロリストが知れば徹底捜索をするからです。

日本政府は馬鹿正直に「行方不明の日本人が何名、安否確認ができたのが何名」などと公表していました。

 

BP社は大型プラント現場には「事業連絡調整官(OLC)」という肩書のセキュリティ専門家を置いています。

これは、アルジェリア政府の方針でそのような現場には外国人はセキュリティ業務には就かせないとしているためで、他の名目としているのですが、それでも実際の業務はセキュリティ・マネジャーそのものです。

日本企業はそういった役職の専門家は置かず、現地の警備会社にすべてお任せといったものですが、その能力は低く危ないもののようです。

たとえ現地政府との軋轢を生じたとしても「自分の身は自分で守る」という姿勢は必要なことでしょう。

 

本書後半では世界各国のリスク状況を詳しく説明しています。

ただしこの本の出版は2014年ということで10年前の情報となってしまっていますが、どうも見たところその当時からリスク状況が悪化したところは数多いようですが、逆にリスクが減少したと言えるところはどうやらほとんど無いようです。

観光客などが行くようなところではないのかもしれませんが、ビジネスであれば長期滞在もあるのでしょうか。

とにかく強盗などはまだ軽い方?、誘拐、殺人、レイプなど凶悪犯罪が日常茶飯事という地域がかなり広いということでしょう。

なお、取り上げられている地域は、中東、アフリカ、中南米、東南アジア、南アジア、中国、ロシアというところですが、触れられていないヨーロッパ、北アメリカも相当危なくなっているようです。

やはり日本から出ない方が良いのでしょう。

 

 

「鉄道写真 ここで撮ってもいいですか」渡部史絵・結城学共著、長島良成監修

鉄道ファンが増加し、乗り鉄とか撮り鉄といった言葉も普通に使われるようになってきました。

しかし鉄道写真を撮ろうという撮り鉄の中には撮影マナーが悪い人たちもいるようで、時々トラブルを起こしたというニュースが流れることもあります。

そんな人向け、どういったことが問題か、どういうことをすると法律違反になるのかといったことを場面ごとに解説しています。

 

法律的には他の所有地に立ち入ることを禁じる住居侵入罪、建造物侵入罪に触れる行為が多いようですが、鉄道関係では特に鉄道営業法という法令があり、そこで鉄道の安全運行などを妨げる行為には禁止規定が数多く制定されています。

 

鉄道沿線からの撮影では私有地への無断立ち入りというのが問題となることが多いようです。

ただし特に列車撮影地に多くみられるような自然が多い地域ではどこまでが私有地か分かりにくいことも多いので、注意が必要です。

また立ち入るだけならまだしも、撮影のために植物や建造物を触ってしまうこともあるようで、器物損壊等の発生もあり得るところです。

 

鉄道用地内は特に注意が必要なところで、多くの場所が鉄道用地であることが多く、そこへの立ち入りは禁じられていると考えるべきです。

また駅のホームでも他の人々の通行を妨害することは禁止行為でありこれも避けるべきでしょう。

 

鉄道事業者も撮影に訪れるファンを規制するばかりを考えているわけではなく、ルールを守って撮影する分には歓迎していますので、そういったことをきちんと頭に入れて振る舞うべきでしょう。

 

今から50年以上も前の私が中高生の頃にはあちこちに蒸気機関車の写真などを撮影に行きました。

鉄道用地内にはそれほど入った覚えはないのですが、沿線の私有地にも入らなかったかと言われればあったような気もします。

まあ当時はよほど有名な撮影場所以外はほとんど鉄道ファンもいないようなところばかりで、そんなところで写真を撮っていても馬鹿じゃなかろうかと冷たい目で見られるだけで不法行為をとがめられるということもなかったのは良い時代だったのでしょう。

まあ、もう行くこともないでしょうが。

「ブラック生徒指導」川原茂雄著

「ブラック校則」といったものが話題となりますが、学校において行われる生徒指導というものは多くの問題を含んでいるようです。

「学校での生徒指導」という、至って普通のことのようなものの中に、どのようなものが含まれているのか、高校で長く生徒指導に携わり、現在は大学で教員志望の学生を教えている著者がその経緯や現状を詳しく解き明かします。

 

著者が現在指導している大学の学生たちに高校までの生徒指導について聞いてみるとほとんどが「厳しい」「怖い」「うるさい」「面倒くさい」「細かい」といったイメージを持っていることが分かります。

彼らも数年先には学校で教員として生徒指導に当たることになるのですが、そういったイメージを持ち続けたまま自らも教職につくのでしょうか。

 

生徒指導ということについて、文科省が定めた「学習指導要領」にはほとんど記述がありません。

その下位文書である「生徒指導提要」というものには、「生徒指導は生徒の人格を尊重し、個性の伸長を図る」とあります。

しかし、現実にはそのような生徒指導などは学生は受けた覚えがなく、教師はやったこともないというものです。

 

生徒指導などと言われるものも、実は「問題行動を取った児童生徒」を「懲戒する」というものがその実態です。

問題行動、すなわち授業中の私語・居眠り等から始まり、遅刻早退、無断欠席、教師への反抗などなどに対し、注意・叱責・居残り・別室指導・立たせる・正座させる等(ただし体罰は禁止されている)のペナルティーを科すことが懲戒であり、実は学生たちが生徒指導と認識していたのはこちらだったようです。

 

懲戒にも懲戒的側面と指導的側面がありますが、「事実行為としての懲戒」はほとんどすべての教師が日常的に児童生徒に対して行っているものの、おそらくほとんどそれを懲戒であることを認識しないまま生徒指導あるいは教育的指導として行っているのです。

 

体罰は明確に禁止されているにも関わらず、まったく無くなる様子も見せず時折大きな事件が起きてニュースとなります。

2012年大阪市立高校で体罰を日常的に受けていた男子生徒が自殺しました。

これに対し文科省体罰の禁止を徹底するという方針を見せています。

しかし体罰というものが指導と懲戒のグレーゾーンで行われているためなかなか無くならないものなのでしょう。

また教師と児童生徒との間に、「教育的権威による関係性」というものがありますが、これを揺るがせるような児童生徒の指導拒否という姿勢があると教師のアイデンティティが危機に陥ります。

児童生徒が指導拒否を起こした時「お前、オレ(教師)をなめてるのか」「なんでオレ(教師)の言うことがきけないんだ」となり、暴力に走ることになります。

この児童生徒の指導拒否という姿勢は教師として最も恐れる事態であり、体罰の原因ともなっています。

 

生徒指導のブラック化という点では、1980年代に激化した学校が荒れたという状況が深く関わっていました。

それに対するには生徒管理を強化するしかないと考えた教師たちが有無を言わせぬ生徒支配に走りました。

著者が大学を卒業し北海道の高校の教員となったのが1980年ですが、ちょうどその頃に校内暴力というものが最高潮になっていました。

実はそれ以前も不良少年というものは存在していたのですが、その活動場所は学校外であり学校の中ではありませんでした。

1965年に文部省が発行した「生徒指導の手引き」にも校内暴力などと言う項目はありませんでした。

それが初めて現れたのが1979年でした。

それは器物損壊に始まり、生徒間暴力からさらに対教師暴力へと広がっていきました。

 

それに対し教師の側からの対抗策が管理強化だったのです。

暴力に対しては警察の導入も行われるようになりました。

さらに指導は細かい点から始まるとばかりに頭髪や服装などすべての事項に対して教師の指導に従わないこと自体が反抗だとしてさらに管理強化を進めました。

ただし、管理主義は校内暴力への対抗策だったというのは一面的な見方であり、実は管理主義が強化されたことにより校内暴力が激化したという面もありそうです。

 

この時期は高校生の生徒数が非常に増加した時期でもあり、新設校が全国に多数開校しました。

こういった新設校は校長の指導力が強いこともあり、特に管理主義に強く向かった高校も多かったようです。

当時「西の愛知、東の千葉」と呼ばれたように管理主義の中心となったのが愛知県でした。

その中でも東郷高校という学校は全国の新設校のモデルともなるほどの管理主義徹底の学校だったそうです。

 

しかしその後、教師の「指導」で自殺などに追い込まれた生徒が出てきたのもそういった学校でした。

岐阜県立岐陽高校での修学旅行体罰事件、兵庫県立神戸高塚高校での校門圧死事件などはどちらもそういった新設校でした。

懲戒的なものであっても教師たちはそれが指導だと信じ切って行ってしまう。

 

学校でのブラック指導で大きな部分を占めるのがやはり部活でしょう。

実は部活というものは学習指導要領の中でもはっきりとした規定もありません。

もともとは児童生徒が自発的にとりくんだ「自由研究」というものから「クラブ活動」となりさらに「課外クラブ」となっていったものです。

本来は自由な意思で参加するものでしたが、徐々に生徒全員参加、教師全員顧問といった形にされてきました。

教師は顧問といっても残業手当も休日出勤手当も無しのボランティア同様です。

ただし、顧問という名前ですが、実体は指導者兼監督兼コーチ兼マネージャーで、すべてを一人に集中させた独裁者となっています。

そのため暴力的な体罰が日常化し、自殺事件も相次いでいます。

 

こういったブラックな生徒指導がいつまで続くのでしょうか。

やはりホワイト生徒指導というものに変えていかなければならないのでしょう。

管理主義強化の際に言われることで「社会で許されないことは学校でも許されない」ということがあります。

しかし実態は子供の行動をそれで規制しようとしても、「社会で許されないことを学校でやっている」のが教師の行為であることが多いようです。

子供の権利条約」というものがありますが、日本は批准が遅れました。

それにはこれに消極的な勢力があるからです。

その一つが学校現場でした。

そういった学校関係者がブラック生活指導の推進者と重なるのでしょう。

やはり「子供の権利」を守るという考え方をかみしめるべきなのでしょう。