爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「習近平がゾンビ中国経済にトドメを刺す時」石平、渡邉哲也著

こういった「中国が危ない」といった本にはかなり怪しいものもあるようですが、この中国出身の石平さんと経済評論家の渡邉さんの本は、かなり信憑性も高いもののように感じます。

他から得ている様々な情報や公的な数値などに現れてくるものと、この本の推定の間に矛盾がなくパズルの最後がピッタリ合うように感じられるものです。

 

ただし、出版が2019年5月と、コロナ禍が始まる寸前であり、またトランプも大統領選の結果が分からずに再選の目もあると言われていた時期、そして安倍もまだ日本の総理であったという、少々情勢が変わってしまったということはあるのですが、逆にファーウェー副社長の釈放や恒大集団の危機など、さらに進んでしまった情勢も出てくるなど、さらに中国の動きが注視を必要とすることになっています。

こういった情勢を見ていく上でも本書の内容を頭に入れておくことは必要なことかもしれません。

 

中国経済は本当のところは危ないとか、国が無理やり支えて統計数値も操作しているといった話は何度も出てきていますが、本書でもそれは同様です。

ただし、非常に具体的な例を数値とともに挙げており、「これは本当かも」と思わせるものとなっています。

たとえば、この19年間でマネーサプライが14.3倍に膨れ上がっている。(2000年13兆元、2019年186兆元)

四大銀行の融資額の総計は、製造業企業に対するものより個人の不動産融資の方が多い。(個人融資68.8兆元、製造業49兆元)

中国の企業部門の総負債がGDPの183%に上る。等々

 

こういった状況を作り出したのは、中国政府の誤った政策によるものですが、それを取り繕うとしてさらに情勢を悪化させています。

 

そんな情勢の中、習近平はどうやら私権を制限し社会主義を再び復活させようとしているかのような発言を繰り返しています。

 

大雑把に言って、中国人のうち3億人が都市戸籍を持ち、3億人が農民工と呼ばれる出稼ぎ労働者、そして7億人が昔ながらの貧農です。

都市の3億人だけが収入を増やしましたが、それと同時に海外旅行に行くなどして海外の民主主義などに触れてしまいました。

これが不安定要因につながっています。

 

しかし経済の虚飾を取り払ってしまえば彼らの収入源もなくなり、元のままの貧農に戻ることになります。

食料を大量に買い込む資金もなくなるので、農業に戻るしかないとも言えます。

 

さらに、中国はAI技術は非常に発達させました。

これを人民の監視に使うということがすでに始まっています。

中国は究極のデジタル全体主義国家、AI監視社会となるのかもしれません。

 

この本の段階で「仮に延命政策によって不動産バブル崩壊を一時的に止めることができてもそのうちに必ず崩壊する」と予言しています。

これがまさに現在起きている恒大集団の危機なのかもしれません。

そうなったら、習近平は国内の大混乱を抑えるためにかつての毛沢東体制のようなものを作るしかないとしています。

そして、その手段として毛沢東時代には無かったAI監視技術というものがあるというのは習近平の強みとなるそうです。

 

今の現状は本書の予言通りに進んでいるのかもしれません。

アメリカがトランプ政権が続かなかったというのは少し予定外かもしれませんが、バイデン政権もまだ中国政策を大きくは変えていないようです。

本の中でも繰り返し強調されているように、日本企業も中国に残した資産などに未練を持たずに早く撤退するのが安全なのかもしれません。

 

 

怖ろしい「酵素ドリンク」

テレビ番組も夕方はだいたいどこの局も地元の話題を流すようです。

 

昨日も熊本市に最近開店したという、「酵素ドリンク」の店を取材し放映していました。

 

何やら、濁ったような気味の悪いものを取材した女性タレントが飲んでいました。

値段はえらい高さの500円以上。

 

そして「作り方」もご披露していたのですが、それを聞いてびっくりしました。

 

甜菜糖をミネラルウォーターに溶かした液の中に果実などを入れるのですが、そこからが問題です。

素手で混ぜる」それにより「常在菌が入って醗酵する」というのが店の女性の説明でした。

 

エー、と内心で叫びました。

 

どうやらこの女性「常在菌」というものの意味も分かっていないようです。

このところ、微生物についての報道も多いため耳に入る機会も多くなったのですが、常在菌とは多くの種類の微生物が体内や体表でバランスを取って存在しているということで、その菌が健康に良いとか言うことは全くありません。

おそらく中にはそれだけが増殖すれば病原性となるものも含まれているはずです。

それがバランスしていれば一種類だけが増殖することもなく、悪さをすることも無いというものです。

しかし、このような液中に放たれればヨーイドンで増殖を始めて思わぬ状況にもなる危険性があります。

 

そもそも、彼女は「酵素」というものの意味も全く分かっていないようです。

どうもこの点については私も含めて生物化学というものを知っている人間と、それ以外の人々(もちろんこちらが大部分)との間に大きな差があるように感じます。

 

一般の人が「酵素」と聞くと、「健康」とか「美容」ということを想像するようです。

しかし生物化学の分野では「酵素」とは様々な生命反応を司るもので、言ってみれば「生きている」ということは「酵素反応」のことであるというほどの重要なものです。

 

そして、酵素は一つ一つの反応にそれぞれ対応するものであり、「万能酵素」などというものはありません。

生物化学の講義の最初の方で習う「解糖系」という反応があり、グルコースを分解していって二酸化炭素とする過程でエネルギーを得る反応ですが、その一つ一つの反応に固有の酵素が関わって進んで行きます。

解糖系 - Wikipedia

 

なお、この解糖系のような反応は細胞の中でだけ起こりますが、酵素の中には細胞外に分泌してそこで反応を進ませるものもあります。

タンパク分解酵素のプロテナーゼや脂肪分解酵素のリパーゼはそのように働きますが、それでもその反応はただ一つであり、何にでも効果があるというものではありません。

 

確かに栄養を含んだ中に微生物を入れてやればそこで増殖を繰り返し、その中では盛んに酵素反応が起きているでしょうから、「酵素ドリンク」と言えないことはないでしょうが、それが「健康」や「美容」に効果があるなどということはないでしょう。

 

なお、上記の店での発酵は、高濃度の糖液中であるということで、病原性のあるようなバクテリアはあまり増殖できず、主に耐糖性の高いカビや野生酵母が優越するのではないかと思いますが、それでも有害になる危険性はかなり高いものと思います。

 

番組中にも「そのドリンクは何に効くんですか」というバカな質問に対し、店側は「お通じが良くなります」とさらにバカな答え。

それは「単に悪いものを飲んで当たって下痢してるだけじゃないの」

と思いましたが。

 

「日本と世界の塩の図鑑」青山志穂著

塩が専売制から脱したのはもうかなり以前の話になりましたが、それからは世界各国から様々な塩が輸入され、国内でも特色のある塩を作り販売するという情勢になっています。

そのような塩について、基礎知識と様々な製品の紹介をソルトコーディネーターを名乗る青山さんが豊富な写真とともに解説しています。

 

現在、日本では4000種類以上の塩が販売されているそうです。

塩の製造といえば日本ではほとんどは海水からの製造ですが、世界的には岩塩の方が優勢のようです。

 

塩は製法から「海水塩」「岩塩」「湖塩」「地下塩水塩」などに分けられます。

日本固有の製法として「藻塩」もあり、現在でも製造されているようです。

 

海水を濃縮して結晶化する海水塩は、世界中の沿岸部で作られています。

海水の成分が地域によって若干異なりますが、それよりも製法によってニガリを除去する過程に違いがあり、それが味に大きな差を作り出します。

 

なお、ニガリ成分を多く残した塩を「ミネラルたっぷり」などと表示しているものがありますが、これは「ミネラル」の用法を間違えているという指摘は正確です。

「ミネラル」は無機質元素のことを呼ぶのですが、塩について使う場合は「ナトリウム」だけは除外して考えることが多いようで、「ナトリウム以外の無機元素、カリウムマグネシウム等々」を指すということが多いようですが、本来はナトリウムもミネラルの一つであり、どんな塩もナトリウムを含めれば「ミネラルたっぷり」であるのは当然です。

 

岩塩は地殻変動によって大地に閉じ込められた海水が長い間に水分を失って結晶化することによってできたもので、その形成過程によりナトリウム層、マグネシウムが多い層などに別れていることが多いようです。

しかし、ナトリウムを主成分とする層でも不純物としてイオウ、カリウム、酸化鉄などが含まれていることがあり、それが岩塩に色を付ける要因となっています。

(紫:イオウ、ピンク:酸化鉄、青:カリウム等)

岩塩の採取法として、乾式採鉱法と溶解抽出法とがあり、乾式では爆破や掘削により掘り起こすもので、これなら岩塩の色も残るのですが、溶解抽出法では地上から水を注入し塩を溶かして吸い上げるもので、色は失われます。

工業用の場合は溶解抽出法の方がコスト安になるようです。

 

日本での塩の製造場所も紹介されていますが、沿岸ではほぼ全国で製造されていることがわかります。

 

 

永井孝志さんの「リスクを考える」ブログより、「はちみつやミツバチはどのような農薬で汚染されているのか」

はちみつがグリホサートという農薬で汚染されているというニュースが流されているということから、リスク学者の永井孝志さんが、はちみつおよびミツバチの農薬汚染について調べています。

nagaitakashi.net

こういった話題は時折流されますが、実際にはちみつやミツバチがどのような農薬でどの程度汚染されているかということはあまり知られていないようです。

 

グリホサートという除草剤は、遺伝子組み換えの作物とセットで売り出されたという経緯があり、特に攻撃目標とされてきたもので、今回のニュースもそれに沿ったもののようです。

週刊新潮が執念ぶかく報道していますが、「発がん性疑惑の農薬を基準値を越えて含むはちみつ」といったセンセーショナルな表題です。

 

実際には基準値自体が非常に低い値に設定されており、健康被害が出る恐れはほとんどないのですが、メーカーは自主回収ということになったそうです。

 

しかし、永井さんが調べても、実際にはちみつからどのような農薬が検出されるのかということを包括的に調べたものがあまり見当たらなかったそうです。

 

その中でようやく探り当てたのが、パレスチナのガザイスラム大学というところのエル・ナハルという研究者の論文だったそうです。

それによると、比較的リスクが高いと見られるのが、POPs(Persistent Organic Pollutants)と呼ばれる、ディルドリンやDDTなど過去に使われた難分解性の農薬だったようです。

さらにそれに続くのは、現在も養蜂家によって使われている、殺ダニ剤でフルバリネートやアミトラズという農薬だそうです。

よく言われる、ネオニコチノイド系農薬やグリホサートなどは検出されたとしても非常に微量で問題となることはないとか。

 

他に、「みつろう」や「ミツバチ自体」の汚染を調べたものを見ても、やはり養蜂家が使っている殺ダニ剤の検出濃度が高いということです。

ただし、もちろんこれらの殺ダニ剤も問題となるようなリスクはないようです。

(なお、殺ダニ剤は「農薬」ではなく「動物用医薬品」として扱われますが、残留の影響を見る場合は同じです)

 

時折問題となる残留農薬ですが、実際にはその全容を見るような研究はあまり実施されていないようです。

 

「ニセモノ図鑑 贋造と模倣からみた文化史」西谷大編著

編著者の西谷さんは、国立歴史民俗博物館の教授ですが、2015年に「ニセモノ博覧会」という企画展を実施したそうです。

 

骨董や絵画、古文書などが本物かニセモノか、それを取り上げたテレビ番組が長く人気を保っていますが、歴史的に見てみるとニセモノと分かっていてもそれを利用したという文化があったようです。

 

本書第1章も「ニセモノとおもてなし」というものですが、近世以降も各地域の旧家、素封家といった家で様々な客を招いての宴というものがしばしば開かれ、そこでは酒肴のもてなしの他に、多くの書画骨董を並べるということも「おもてなし」の一つでした。

旧家ともなればある程度の品物を持っているのが当然とも思われていたものですが、その家での宴会ではそれを披露するということが一つの趣向であり、必要不可欠でもあったようです。

 

そのためには、真贋というよりも「有名な作品を持っているかどうか」の方が重要でした。

本物ではあっても名の知られていない作家の作品よりは、たとえ贋物でも雪舟狩野探幽、谷文晁などといった「誰でも名を知っている有名人の作」が並んでいた方が受けたのでしょう。

そういった風潮のため贋作を作成するというのも一大産業であり、かくして名家に所蔵されている書画骨董のほとんどは贋物ということになってしまいました。

 

ただし、「ニセモノ」といってもその内容は様々です。

英語で言えば、フェイク。

贋作、偽文書、偽造といったものです。

イミテーションというのは、模倣、模造品。

本物と言って売ればフェイクですが、ニセモノらしくしていればイミテーションとなります。

コピーは複製、模作。

レプリカは写し、復元品。

コピーとレプリカの差は難しいようですが、博物館では展示用にレプリカを使うことがあります。

かつては芸術家はその弟子と一緒に一つの工房を構成し、そこで弟子がコピーを作ったりレプリカを作ったりということがありました。

 

地方の名家に伝わる書画骨董は「威信財」とも呼ばれます。

つまり、その家の「威信」を示すような物品であるということです。

そのため、名のある作家の作品を集めるということが行われ、そこに贋作の入り込む隙も多くなりました。

したがって、作者の名も地域によって差があり、雪舟は山口の大内氏に招かれたため中国地方に多く、酒井抱一姫路藩の大名家の生まれなので兵庫県の家には必須、長野や山梨には何と言っても武田信玄の書状というのが地域性となっています。

 

博物館には本物の展示もありますが、けっこう多いのがレプリカ展示です。

レプリカは復元品とも言いますが、本物では経験できない触って楽しむ体験や、製作途中の様子を見せたりと、重要な役割を果たしています。

銅鐸は弥生時代の祭器ですが、おそらく当時は叩いて鳴らして音を聞いたものと思われています。

もちろん本物の銅鐸を叩くことなどできませんが、レプリカの銅鐸を叩いて音を聞くという体験ができる博物館もあります。

 

冒頭に書いた、歴博で開かれた「ニセモノ博覧会」は博物館としては異色の企画でした。

それには前例があり、1990年にイギリスの大英博物館で、「万国贋作博覧会」と言うものが開かれ大きな話題となったそうです。

資料の真贋問題というのは、博物館にとっては命取りともなる危険な領域に入るのですが、それでも一度はやってみたいというものだそうです。

来場者にアンケートを取った結果も、批判の声もあったようですが、多くは好意的なもので、また若い世代の来館者が増えたという効果もあったとか。

 

色々と考えてやっているようです。

 

 

「成長無くして分配無し」なのか。

選挙戦が始まり、各党各候補者の政見紹介などが新聞紙面の大半を占め、そういうことにあまり興味も出ない私としては新聞を読む時間が減り、他のことができると喜んでおります。

 

とは言え、気になるのが「成長か分配か」ということであり、政権与党や経済界、そして政権擦り寄り野党などでは「成長重視」のようで、「成長無くして分配無し」などということを語っています。

 

しかし、これまでずっと「成長」したくなくて何もしなかったのか。

そんなはずはないでしょう。

 

言葉は違うかもしれませんが、自民党は常に「景気対策」ばかりを言っていました。

これが延々と上手く行かずに低迷し続けていました。

 

今ようやく、その原因は「分配軽視」のために国民の購買力自体が失われ、そのために内需がほとんどの日本経済は浮揚するわけもないということが気づかれてきたということでしょう。

私はずっとそう思っていましたが。

 

つまり「成長無くして分配無し」というのは、これまでの自民党政治の失敗そのものであるわけです。

 

それを変えなければどうしようもないということに気づかず、「まだ成長重視が不足」と言うのはあまりにも愚かです。

 

これまでも自民党政治はつねに「まだ足らない」と言い続けていたようなものです。

その方向性自体が誤りだという反省は全く無く、もっと注ぎ込めとしかしていませんでした。

いい加減に、自分たちの存在自体が間違いだということに気付くべきでしょう。

 

それとともに、有権者も目を覚ませと言わなければなりません。

こんな愚かな自民政治を支え続けたのは絶対多数とは言えないものの比較的多数の有権者でした。

それでどうなったのか、考えてみるが良い。

わずかな米価吊り上げや農地整備と引き換えに農業や地方は徹底的に衰退させられました。

それと同じことが現在でもあらゆる方面で行われ、見かけの良さで票を集めて実は何の効果もなく、逆に基盤を根底から崩されるようなことが続いています。

もちろん、現在の野党勢力も危ういだけの存在ですが、それに政権を取らせることは、政治家や国民の目を覚まさせるだけの効果はあるでしょう。

「J・S・バッハ」礒山雅著

ヨハン・セバスチャン・バッハバロック音楽の最も重要な音楽家であり、日本では「音楽の父」とも呼ばれました。

しかし、音楽の世界がバロック音楽から古典派・ロマン派音楽へと移り変わっていく中で、一時はほとんど忘れ去られた時期もあったのですが、19世紀になりメンデルスゾーンなどにより再評価され、その業績も認められることとなりました。

現代ではかえってその手法が今日的なものと共通であるとして評価が上がっています。

 

この本では、バッハの音楽だけに止まらず、その一族、生涯、家族、生活など様々な視点からバッハと言うものを見直していきます。

 

バッハの一族は多くが音楽家として活動していますが、当時の音楽家の境遇はそれほど高くない人も多く、バッハ自身も学校での教育はあまり高くなかったために、その後の人生で数々の苦労もしていたようです。

しかし、その実績と能力、そして強固な意志で次第に重要な職を得ていき、各国の王族などにも認められる地位を築きました。

 

時代はちょうどバロック音楽が徐々に退潮となり、古典派へと移り変わろうとしていた時期だったのですが、バロック音楽を形作るポリフォニーという様式へのこだわりが非常に強く、それを死守するバッハは次第に時代遅れと評されるようになりました。

 

バッハの息子たちも多くが音楽家となったのですが、この風潮の中で新たな方向に転じるものもあり、乗り切れない者もあるといった具合で、さほど重要な立場を築くことはできませんでした。

 

メンデルスゾーンなどがバッハの曲を再発見し大きく演奏を広げていったと言っても、そのスタイルはロマン派音楽の影響が強すぎ、バッハ本来のものとは大きく違ったものでした。

楽器の変遷も大きいもので、チェンバロからピアノへの転換ばかりでなく、フルートやトランペットなどの管楽器でもその機構や演奏法などに大差があるものでした。

そのため、新しい楽器を使った演奏では楽器間のバランスがまったく異なるということも多かったようです。

それに対処するため、古楽器を使った演奏というものも多くなってきました。

フルートやトランペットなどの入った協奏曲では音の大きさから大差があり、全く違った曲のように聞こえるということです。

 

巻末に礒山さんが選ぶ「バッハを知る20曲」が掲載されています。

私もバッハは少しは聞いていたつもりでしたが、この20曲のほとんどを知らなかったというのはがっかりです。

コラール「主よ、人の望みの喜びよ」で有名なカンタータ第147番も、そのコラールが出てくるのは最後の一瞬だけで他の旋律もたくさんあるということも知りませんでした。

しかし、これらの曲もユーチューブで検索するとすぐ聞くことができるというのは、確かに便利な世の中になったものです。

 

しかし今「バッハ」で検索するとIOCの会長の方が先に出てしまいます。嫌な世の中になったものです。