征夷大将軍という役職は律令体制の始めからあり、奈良時代や平安時代にも蝦夷征伐のために任命されていましたが、日本の歴史で「将軍」といえばやはり鎌倉幕府に始まる武家政権の最高位として存在感がありました。
その後、室町幕府、江戸幕府と征夷大将軍をトップとする体制が続きました。
その数は総計39名です。
しかし、形だけの存在であった時代も多かったのですが、そういった時も含めやはり「なりたいもの」らしく、自らの希望や周囲の思惑で将軍を目指す候補者が数多く存在しました。
そういった者が何人もいてもなれるのはその中で一人だけ。他の人々は「将軍になり損ねた男たち」となったわけです。
彼らの将軍を目指した経緯とその失敗をコンパクトに網羅しています。
なお、将軍という地位を目指したとは言えないであろう、北条義時、織田信長、豊臣秀吉、榎本武揚も加えてあります。
鎌倉幕府を開き征夷大将軍となった源頼朝という存在は、その後も大きな意味を持っていました。
その血を引く者ということで、将軍の候補者となり得ると考えられ、かえって抹殺された一幡、公暁、栄実、禅暁といった人々は源家の血筋を絶やそうという北条氏の目標となり本人に将軍になろうという意志があろうとなかろうと殺される運命になりました。
室町幕府を開いた足利氏も源氏の名門という血筋があればこそだったと言えます。
そのために、正統性から言えば足利より上と言う自負があった新田義貞の将軍位への思いもあったのでしょう。
江戸幕府でも始祖家康からの血筋というものが重要視されました。
しかし、初期にはまだ長子絶対という原則が確立されていなかったことが、結城秀康、そして忠直を将軍位から遠ざけてしまった理由となりました。
その反省からか、どんなに愚鈍でも長子を継嗣とするということになり、野望を絶たれた田安宗武のようなことになったわけです。
血縁相続というもののむなしさが感じられるエピソードでした。