爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「武器が語る日本史」兵頭二十八著

日本刀の切れ味は世界でも有数のものという話もありますが、一方では戦場ではほとんど役に立たなかったという話も聞きます。

乏しい知識ですが、世界各国、そして歴史の古今を映画の描写など見ても、戦争の光景というものは似ているようで違うところが多いようにも思いますが、特に日本の戦争は違いが多いようにも感じます。

 

こういった点について、著述家でありながら戦争にも詳しいという著者がすっきりと説明しています。

これは、著者の兵頭さんがまず最初に自衛隊に入隊し、数年の勤務の後に大学に入りなおしてその後作家に転じたという経歴にも関係がありそうです。

その眼から見れば戦闘の本当のところも見えてくるのかもしれません。

 

扱われている範囲は、古代から現代まで、様々な場面での日本の戦闘の特異性とそれがなぜ起きたかの原因まで言及しています。

 

疑問点は、

「なぜ日本の合戦では投げ槍が使われなかったのか」

「なぜ日本の楯はシンプルな板状なのか」

「なぜ日本の武士は顔の真正面を装甲しなかったのか」

「なぜ日本からは銃剣が発明されなかったのか」

「日本の馬は強かったのか、弱かったのか」

言われてみればもっともな疑問ばかりです。

 

ただし、刀剣については他にも書いている書籍があるためにほとんど触れるものがない弓、弩(いしゆみ)、大砲といったものを主に書いたそうです。

 

正確な記述かどうかは分かりませんが、古代の大和朝廷は4世紀には朝鮮半島に戦力を送り戦ったそうです。

当時の朝鮮は中国からの影響で、複合材短弓(コンポジット・ショート・ボウ)や弩が使われていたはずであり、さらに北方からの影響で騎兵があったはずです。

それに日本軍は丸木の長弓、しかも歩兵ばかりで対抗したのでしょうか。

とても相手にはならなかったはずです。

 

世界標準から見れば、馬に乗った騎兵が主の軍隊に歩兵が対抗するには槍や長刀、薙刀といった兵器で相手を突き落とすといった戦法を取るのが普通だったのですが、日本では馬を利用した戦闘が発達しなかったために、それに対抗する槍の発達も遅れました。

 

 

これも世界的には兵器として多く使われていた「投げ槍」ですが、日本では先史時代の遺跡にはあるものの、歴史時代の兵器としては使用されませんでした。

この投げ槍は、もともとは狩猟民族が大型哺乳類などを獲物として狩をするときに使ったもので、日本でも人類移住の最初の頃、ナウマンゾウなどを相手に使った形跡はありますが、それらの大型獣を取りつくしてしまって以降は投げ槍も用無しになりました。

縄文時代以降は比較的小型の獣を狩りするようになったのですが、こういった獣は動きが速く小さいために投げ槍を使っても命中させることは難しかったようです。

そのため、落とし穴などのワナ猟、そして弓矢を使う猟が発達するようになりました。

その結果、兵器としての投げ槍も忘れられたようです。

 

中国大陸では激しい戦争を繰り広げてきましたが、そのため兵器の強力化が図られました。

弓も複合素材短弓や、大きな弩といったものの発達がすでに西暦前の戦国時代から顕著です。

複合素材短弓とは、木材を中心としてその内面に牛の角をスライスした薄板を張り、外側には大鹿の腱の繊維を張ったというものです。

それらを魚から取った膠で接着したもので、日本のような丸木をそのまま使ったものよりは強力で、弓の速度も到達距離も優れたものでした。

それがなぜ日本で使われなかったのか。

どうやらその接着剤が日本のような多湿地帯ではすぐに剥がれてしまったようです。

すでにその時点では伝統的な技法が確立していたその接着法に代わるようなものを探し出すこともできず、結局は丸木の弓に落ち着いてしまったようです。

 

日本の戦国時代、武田信玄が騎兵隊を使ったと言われましたが、歴史家の研究ではそのような戦法は取れなかったと言われています。

しかし、これも世界標準ではなく世界的には騎兵を縦横に使って戦いを有利に進めた例はいくらでも見られます。

なぜ日本ではそれができなかったのでしょうか。

どうやら、圧倒的に馬の数が少なかったようです。

ヨーロッパでは畑作農業が主であったために三圃式農業などといって連作障害を防ぐことを目的として牧草を植えざるを得ない状況があったために、家畜を多数養うことができました。

しかし、日本の特に西部ではほとんどが水田となりました。

水田では連作障害が起きにくいために、ほとんどの耕地を水田として毎年稲を栽培することができました。

その結果、狭い土地の多くを水田とすることで単位面積への居住人口を増やすことができたのですが、それ以外の作物や牧草を作る農地ができなかったのです。

そのため、馬を最低限必要な数以上に養うことができず、戦争でも馬を使うことが想定できなくなったそうです。

 

馬の使用が難しかった事情は、運輸体制の構築ができなくなったことにも影響しました。

古代ローマ帝国が石畳の道を帝国内に縦横にめぐらし、軍隊を高速で移動させたことに見られるように、馬車や戦車を発達させた彼らは道路の建設や保守にも力を入れました。

しかし、日本ではその前提となる家畜の数が少なかったために道路整備の必要性もなく、人が歩くだけの道ができただけでした。

この状況は実に明治時代初期まで続いており、江戸時代でも馬車の輸送がほとんど進歩せず、陸上交通は人間が歩くかせいぜい馬の背に載せるだけでした。

 

これが影響したのが、「日本では楯が使われなかった」ことだそうです。

多くの世界の戦争の場面では、大きな楯を張り巡らしてその陰から強力な弓を射ち合うというシーンが普通ですが、日本ではほとんど使われていません。

これも「楯は大きくてかさばり、持って歩けなかったから」だそうです。

馬車輸送が普通であった世界では、楯がいくら大きくても馬車で運んでしまえば大丈夫。

しかし、人が担ぐしか運送方法がなかった日本では、離れた戦場まで楯を運ぶ手段がありませんでした。

 

さらに、幕末の戦争の場面でも「大砲の移動」が難しいという問題が発生しています。

舗装道路どころか石畳の道もほとんどなく、大砲を保有していてもそれを移動させるのは非常に困難でした。

 

太平洋戦争までの日本陸軍は銃剣を付けた銃で接近する白兵戦を挑んだとして、その前時代性を批判されますが、この白兵主義というものも元からあったものではありませんでした。

日露戦争の時にも、銃剣はあったもののそれを使った白兵戦などはほとんど想定されておらず、兵士は及び腰で銃剣を振り回すだけ、指揮官が刀を振るって単独で突撃し戦死して初めて戦ったという状態だったそうです。

ロシア兵は体格も大きく銃剣を付けての着剣突撃の前に日本軍はしばしば不覚を取りました。

この体験が効き過ぎて、その後の白兵戦信仰を生み、太平洋戦争時には時代遅れの戦法となったことに気付かなかったようです。

 

日露戦争時の体験というのは、戦車の構造にも影を落としました。

その際の塹壕攻撃に戦車を使用し、ある程度の効果があったのですが、そのため戦車の装甲に気を付ける必要を忘れ、さらに大砲の口径も小さいもので済んでしまい大砲の威力を真面目に考えることをしませんでした。

大陸の戦争で繰り広げられた戦車戦で、戦車同士が砲撃し合うという状況であれば、厚い装甲で守りを固め強力な大砲で破壊するということが現実であるということが分かったはずですが、それを忘れてしかも数千台もの中戦車(57ミリ砲)、軽戦車(37ミリ砲)という役にも立たない戦車を作ってしまったのが日本陸軍でした。

アメリカ軍のシャーマンM4中戦車は57ミリ砲、M3軽戦車でも口径は37ミリといえどはるかに破壊力のある主砲を持ち、戦車戦となればひとたまりもありませんでした。

 

もしも、そのような無駄な戦力の製造に大きな資源を使うのではなく、輸送トラックやブルドーザーの生産にあてていたら、少しは戦況も変わったかもしれません。

南方の島々にアメリカ軍が上陸すればあっという間にブルドーザーで飛行場を作ったと言われていますが、それを日本軍ができたのかもしれません。

とはいえ、作ったとしても燃料が無かったかもしれませんが。

 

これまで映画などで戦争シーンを見てきて、なにか違和感を感じていたのがようやくすっきりと分かってきたように感じます。

そして、最後にも書かれているように、これは「現在でも起きている」ことかもしれません。

一番「平和ボケ」しているのが日本では軍関係かもしれず、それが兵器の世界標準を知る努力をしていないかもしれません。

 

武器が語る日本史

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