作家の清水さんですが多くのエッセイも書いています。
今回はそのテーマに「教育」を取り上げています。
というのも、清水さんは「教育」についてことのほか思い入れが強いようです。
清水さんは愛知県のお生まれですが、高校生の頃から小説家になりたいという思いが強く、大学も文学部に進みたかったそうです。
しかし、最初に受けた第1志望はあえなく失敗、その次の愛知教育大学に合格しました。
そこは、愛知県内のほとんどの教員を養成するという学校ですが、清水さんは一応まじめに受講して卒業まではしたものの、教員になるという考えは全く無く、卒業とともに東京に出て会社勤めをしながら小説家デビューに向けての活動をしていたとか。
そんなわけで、たまたま、という方が近いようですが、教育大学で教員養成の課程を受講したということから、やはり教育というものに対しては考えるところがあったようです。
ただし、この本は1999年の発行であり、「今どきの」というのもその当時の「今どき」です。
それはまだ「ゆとり教育」にこれから取り組もうという時代であり、当然ながらそれに対する批判も含まれています。
清水さんは作家としてある程度名が知られるようになったころ、かつての恩師に頼まれて愛知で講演会を開きます。
それは、「教員向け」の内容であり、主催者側も出席者も教員が多いというところでした。
すると、あちこちに「中学時代の恩師」「高校時代の恩師」「大学時代の友人」といった人々がぞろぞとと現れます。
つまり、愛知教育大学という学校に学んだということで、愛知県の教育界というところに何人も知り合いができてしまったということです。
これで、単に「懐かしかった」では済まないところが大したもので、清水さんはそこから教員というものが極めて狭い世界だけに居るということに思い至ります。
教育系の大学で学び、教員として採用され学校に配属されるということで、大学以降ではほとんどその世界だけの中で人間関係を築き、生きていくということになります。
他の社会の人々とは、先生と生徒の親という関係では交際がありますが、それ以上の理解はできません。
こういった、狭い社会の中だけで形成される教師の意識はやはりかなり特殊なものになるようです。
子ども(自分の子ども以外)と真剣に話し合うという機会は、普通の大人にはなかなかないでしょう。
そういった場面が登場することがあります。
子どもが(分かっていながら知らないふりで)、「なぜ援助交際はいけないのか」「なぜ覚せい剤はいけないのか」そして「なぜ人を殺してはいけないのか」などと聞いてきても、それに対して正面から答えられる大人はほとんど居ません。
本当の答えは大人もほとんど分かっていないのでしょう。
これはやはり正答を知った上で、あとはどこまで噛み砕いて答えるかは相手次第としなければなりません。
麻薬がいけないのは、快楽のために溺れる人が人生を破壊させ、ひいては社会の崩壊に至るからです。
これはまだ分かりやすい方です。
売春がいけないのは、麻薬よりちょっと難問です。
「誰にも迷惑はかけていない」と女生徒に言われると答えに詰まりそうです。
しかし、これを野放しにすると、婚姻という制度が崩壊するからということです。
性交渉は、夫婦と家族というものを成り立たせる根本ですが、売春はこれを売買するということです。
これは止めようとしてもなかなか止められないものですが、しかしこればかりになると無理をして婚姻して子供を作り育てるという制度が危なくなります。
殺人はやってはいけないというのは当然すぎて、「なぜいけないのか」と問われるとかえって答えに戸惑います。
「だめだからだめ」と言いそうですが、それではちょっと生意気な子供には馬鹿にされます。
これにはやはり人間が社会を形成し進化してきたというところから説明しなければなりません。
動物社会と同様、人間でもやはり力の強いものが君臨する社会を作ってきました。
しかし、人間は他の動物よりも強く「協力して作り上げる社会」を作ってきたという側面が強いようです。
そのため、「利己的な暴力は禁止する」ということをルールとするようになりました。
これは人類のどこの社会でも同様のようです。
法律というものができる以前から、利己的暴力ことに殺人などは厳しく罰せられるようになりました。
このように、子供の「なぜ」に答えていくと、それは「それを許すと社会が壊れかねないからだ」ということの行きつきます。
そして、教育というものはそういった社会性を教えるものだというのが清水さんの教育観とも言えるかもしれません。