新聞には多くの写真が掲載されています。
しかし、そういえば最近は少なくなっているのかなと、改めて気づかされました。
こういった、「新聞と顔写真」の関係について、長く新聞社に勤められてきた著者が写真使用の歴史からそこに含まれる様々な意味まで詳しく解説しています。
「はじめに」の部分に、この本を書こうと考えた理由や、新聞顔写真について良く分っていない点などが提示されています。
まず、顔写真が何時頃からどういう理由で載せられるようになったのか。
また、顔写真の枠が丸形の場合と角形の場合があるが、そこにはどういった意味が込められているのか。
さらに、最近は特に民間人の写真の掲載が少なくなってしまったが、その理由は。
顔写真に見られる人々の顔付が、時代によってかなり違っているがなぜか。
こういった点について、いろいろな資料から解き明かしていきます。
かつて、新聞記者の仕事の大きな部分は、事件や事故の犠牲者、加害者、被害者の顔写真を入手するということであったそうです。
そのころの記者間の隠語では「がん首集め」と言っていたそうですが、特に事件の被害者の家を訪ねてその写真を貰ってくるというのが大変な仕事であり、中には「警察の方から来た」と言って貰うといった犯罪すれすれのことをしたということもあったようです。
そういったことをしてまで、顔写真が欲しかったというのは、新聞紙面にそれがどうしても必要であったからということです。
事故が悲惨であるほど、事件が残虐であるほど、その被害者の在りし日の姿を掲載することで悲惨さを強調したいという新聞側の理由がありました。
ただし、そこにも少しずつ違いがあり、伊勢湾台風などあまりにも被害者が多すぎる場合には写真集めなども行われなかったようです。
また、鉄道事故、船舶事故の場合はそれほど掲載されなかったものの、飛行機事故と山岳事故では異常なほど顔写真掲載にこだわった形跡があります。
明治時代後期に新聞に写真を載せるということに一番積極的だったのは報知新聞でした。(明治5年に創刊、昭和18年に読売新聞と合併)
他の新聞では木版で刷られていた中で、報知の新聞写真というものは目を引くものでした。
明治37年の日露戦争開戦以降は、戦争報道への写真使用が増えていきます。
新聞各社の写真掲載の競争も激化していくなかで、「戦死者の報道」への顔写真掲載が増えていきます。
さらに、「事件被害者の顔写真」、「加害者の顔写真」といったものも掲載も始まります。
戦後には、「事件・事故の被害者加害者の顔写真」掲載が全盛期を迎えます。
昭和30年から50年ころまでは、年間平均500枚以上の写真が掲載されていました。
しかし、その後はどんどんと減っていき、最近では年100枚以下となり、さらに被害者の写真はもっと少なくなっています。
犯罪容疑者も、逮捕された時点で顔写真が掲載され、名前も呼び捨てで書かれていたものが、「容疑者」付きでの報道となります。
被害者も過熱報道で人権侵害と指摘されることが増え、新聞各社の自粛も広がっていきます。
このように、新聞での死者の顔写真掲載は、日露戦争での戦死者写真掲載から始まりました。
そこには、哀惜の意を示すと同時にその死をたたえることで国民の戦意を高めるという狙いがありました。
ここには、葬儀の際の黒枠写真と同様の意味が込められていました。
事件関係でも被害者の顔写真の掲載が先行し、そこにも鎮魂の意味が込められていました。
また、犯罪加害者への勧善懲悪思考も関係し、被害者が女性や子供であるほどその写真を求めるということにつながっていきました。
しかし、それが写真入手の新聞各社の競争過熱につながり、社会からの批判も強まったことで、徐々に掲載が少なくなっていきました。
報道姿勢の変化と言うこともあったのでしょう。
新聞に掲載されている顔写真の人々の表情も、大きく変化しています。
かつての写真では皆ほとんど笑みを見せず硬い表情ばかりだったのですが、最近では多くの人が微笑んでいます。
最近では「微笑んだ写真以外は撮らない」ということが多いのか、政治家の顔写真が載る場合でもほとんどが笑顔になっているようです。
これは「顔写真は笑顔がいい」という意識が広まったからでしょう。
ただし、政治家の場合は「ポーズ笑い」がほとんどで、本当の笑顔とは異なりますが、それを見抜くことも必要かもしれません。
日航機事故の際の顔写真が並んだ新聞紙面を思い出しました。
あの頃が写真掲載の最後の全盛期だったのでしょうか。