武士というと闘う者、貴族はそうではなく優雅に恋など語らう人というのが普通のイメージでしょうが、その逆であった人々も数多くいました。
そのような「恋する武士」「闘う貴族」というものを取り上げています。
「恋する武士」では時代別に3つに別けています。
平安時代の王朝武者、鎌倉武士、南北朝時代の武将たちというものです。
彼らも戦う存在であったとはいえ、恋もするでしょうし家族を思うこともあります。
ただし、それで闘いをおろそかにしてしまい、戦争に敗れてしまってはどうしようもありません。
しかし、そういった事態に陥ってしまった武士たちが数多く居たというのも哀しさを感じさせることです。
西行は出家する前は佐藤憲清(または義清)という武士でした。
しかし仕える宮廷の女性に想いを寄せ、それがかなわなかったことが出家の理由であったようです。
その相手も一人だけではなかったようで、鳥羽院の后の待賢門院が候補の一人とも言われています。
主人である崇徳院から「阿漕ぞ」と注意されたほどの思いぶりであったようです。
これは阿漕浦を詠んだ有名な和歌があり、忍ぶ恋も露見しては大変だという意味だったようです。
平家一門の人々の恋模様もあれこれと記録されています。
そこには、武家でありながら貴族として振る舞うことで勢力を伸ばしていった平氏の事情もあるのかもしれません。
また、「だから源氏に敗けた」というその後の武士政権側からの見方も影響していたようです。
一方の「闘う貴族」ですが、貴族も刀を振るうという機会は少なかったかもしれませんが、宮廷での勢力争いというものは非常に激しかったものであり、それに勝ち抜こうと闘い続けたとも言えます。
藤原氏の中でも道長に至る一門がその他の勢力を打倒し続けてきた歴史とも言えます。
道長の父親の代、道長の父兼家はその兄兼通と熾烈な勢力争いをします。
この争いの方法は、娘を天皇に入内させ皇子が産まれれば外戚となれるというもので、かなり偶然性が強いものでした。
それに運よく勝ったのは兼家で、その一門が隆盛します。
しかし、兼家の息子の代でも兄の道隆と弟の道長が同様に争うこととなります。
ここでも道長の娘彰子が一条天皇の男子を二人産んだことで道長の勝利となり、兄の道隆は敗れてその後早く病死します。
道隆の息子隆家は大宰権帥に左遷され大宰府に赴任しますが、そこにちょうど満州から女真族が攻め込んできた刀伊の入寇という事件が起きました。
隆家はその際、最高司令官としてそれに当たり非常にすぐれた戦いを行ったようです。
中央での政争より実際の戦闘の方が向いていたようです。
多くの人物を扱い、やや焦点が広がり過ぎが感もありますが、多くの人間模様を見ることができました。