著者の渡邉さんは少年の頃に吉川英治の三国志に魅せられ、そのまま学生になってからは三国時代の歴史研究へ進み今でも三国志演義や正史三国志などの研究をされているという、三国好きの方です。
中国の漢王朝の末期、西暦2世紀から3世紀にかけて、魏呉蜀の三国が鼎立して争っていた三国時代はその後様々な脚色をされた本が出てそれを基にした講談が流行し、中国でも人気のあるものとなりました。
日本でもその流れを受け江戸時代から各種の読み物となり、さらに吉川英治が小説を出してからはそれが爆発的に広がりました。
三国を扱った史書は、正史とされる三国志が曹魏に代わって王朝を建てた司馬氏の晋の臣下、陳寿が書かれました。
しかし、この「正史」というものは、「正しい歴史」ではなく「正統を定めた史」という意味であり、陳寿の考える「正統な王朝」を主張するものです。
その時点ですでに晋が正統という意識が強いものでした。
しかも、陳寿は晋に仕える前には蜀漢の臣下でありその影響もあり書かれたものですから公平な書き方などとは関係のないものでした。
一方、演義としては明代の羅貫中が書かれたものが最初と言われていますが、その後明の李卓吾本を経由して清代の毛宗岡本というものが決定版と言われています。
しかし、吉川英治が参考にしたと言われる湖南文山の「通俗三国志」は毛の本ではなく李卓吾本を基としており、その一番の違いは関羽の神格化があるかなしかというところです。
特に明清時代には中国では関羽の神格化が非常に大きくなり、毛本でもその記述が特徴的ですが、日本にはそれほどその影響が見られません。
なお、三国志の中で特徴的な曹操の「悪役化」、関羽や諸葛孔明の神格化、孫呉の人々の道化的な扱いというものは、すでに正史三国志のすぐ後の東晋の時代から始まっているようで、当時の書物は残っていませんが内容からはその動きが推測されるそうです。
三国志は、正史も演義も同様に「黄巾の乱」から書き始められます。
それ以前から漢王朝の乱れと衰退は始まっていたのですが、黄巾の乱以降は混乱が大きくなります。
その乱の最初に有名な檄文が掲げられます。
蒼天すでに死す 黄天まさに立つべし 歳は甲子にあり 天下大吉なり
という16文字のスローガンを掲げました。
この「蒼天」という言葉の意味は、「漢王朝」であり、それが「黄天」すなわち黄巾に代わるという意味だと解されていますが、実は「漢王朝」は蒼すなわち「青」ではありません。
蒼つまり木ですので、五行思想の木徳を表しますが、漢王朝は火徳すなわち赤であることは周知のことですので、蒼天は漢とは言えないことになります。
実は、「蒼天」は儒教道徳を表していたということです。
儒教の天が死し、黄天すなわち道教の世になるということを示していたのです。
曹操の魏は、国力を増すために数々の施策を実施しましたが、特に大きな3つの基盤がありました。
それは、平定した反乱軍の中でも最強と言われた青州出身の兵を配下とし青州兵と呼び軍団の中でも中心と扱ったこと、そして経済基盤を強化するために兵に屯田を起こさせたこと、さらに漢の献帝を擁立したことです。
演義の中では最後の献帝擁立しか描かれておらず、しかも悪意のみを強調していますが、実際には曹操は生涯献帝を廃するという行動には出ず、さらにその遺書にも献帝については触れていません。
しかし、演義では「遺書の中でも真意を誤魔化しているのが曹操が奸雄であることの現れだ」とまで書かれており、そこまで言うのもちょっとと感じます。
関羽を祀る関帝廟というものが横浜中華街にもあり、各地の中国人街での祭礼も行われていることは知られていますが、その関羽の神格化というものも三国志の影響と言えます。
関羽は道教の神として祀られますが、早い時期の道教の経典には劉備や曹操は扱われているものの関羽には触れられていません。
唐の時代になって初めて関羽が神として祀られたという記録がありますが、本格的に神格化が始まったのは宋の時代になってからです。
その理由としていくつかが挙げられていますが、最大の理由は山西の商人たちが関羽への信仰を強めたからです。
彼らは塩の専売で富栄えました。
そして、実は関羽の出身地と言われる山西の解県というところがまさに塩の生産の拠点だったのです。
山西商人たちは宋代の塩専売で栄えていったのですが、それを同郷の英雄、関羽を崇めることで力を増そうとしました。
それが、その後の時代にも関羽を神として祀ることにつながったそうです。
三国の時代には漢代から続く名士といわれた貴族たちと、成り上がりの武将たちとのせめぎ合いが続きました。
曹操はやや良い家柄でしたが、孫権は中小貴族、劉備に至っては王族とは名ばかりの成り上がりでした。
それが、諸葛孔明という名士の中心人物を取り込むということではかなりの配慮と摩擦が伴ったようです。
劉備が死に際し、「劉禅に才なくば自ら即位せよ」と孔明に言ったのも、そこまで孔明に強く言わなければ安心できなかったのでしょう。
劉禅に才がないのは誰でも分かっていたことで、これで孔明を試したということです。
さすがに、孔明もなら自分がとは言えず、劉禅を支えることになったようです。
それをその後も続けることはなかったのですが、突き詰めていけばこの著者と同じようになったかもしれません。