室町時代以前には、文書というものはほとんどが公文書しかありませんでした。
紙などもそれほど普及せず、字を読み書きできる人々もわずかであれば私的な通信というものも成り立ちません。
しかし、戦国時代になると戦国武将と言われる人々は私的にも文書を書き散らし、妻子や家臣などに送るようになります。
さらに公文書も乱発されるようになり、こういった双方の文書を「手紙」と呼びます。
この手紙が現代でも大量に残っています。
これらの手紙はすべてがきちんと整理され研究されているわけではありません。
その中には、読んでいくとこれまでの戦国武将のイメージが変わってしまうようなものもあるようです。
上杉謙信といえば、清廉潔白なイメージで、さらに戦術家としても優れていたというのが通説でしょうが、「不犯の誓い」なるものを立てたということで高潔とも考えられています。
しかし、実際は男色が好みで美少年を侍らせてのどんちゃん騒ぎをしたということが、時の関白近衛前久が知恩寺住職にあてた手紙に書かれています。
さらに、謙信の場合自分の男色の好みの相手を人材として登用したと見られる例が多いようです。
毛利元就は、死に臨んで三人の息子にあてた遺言状で、兄弟の結束を訴えたことで名高いのですが、実はそれ以外の場面でも子どもたちにこういった小言を何回も言っていたようです。
長男隆元にあてた手紙も残っていますが、同様の内容を細かく書いています。
あまりにもクドクドと小言を言われ続けたためか、隆元は萎縮した殿様となってしまいます。
隆元は元就の死去に先立ち若死にしてしまいますが、元就は隆元の嫡子輝元にも小言を繰り返し、それが自立を妨げたのでしょうか。
伊達政宗は大胆な戦略、派手な振る舞いという印象がありますが、実は手紙魔とも言えるほどで、残っているだけで千通、おそらく数千通の手紙を書きまくったようです。
そこには人々に対する気配りも相当なものですが、やはりそれが好きだったのでしょう。
実母が弟を擁立しようとしたので不仲だったという話もありますが、母にあてた手紙も残っておりそこには紛れもない愛情が感じられるそうです。
後世に残る手紙というものには注意しなければいけないのでしょう。
しかし、手紙が残らなくなった現代は後世の人から見ればどう映るのでしょうか。