太平洋戦争時に日本の植民地であった朝鮮半島から労務動員と称して多くの人々を連れてきて働かせたということは事実でした。
その補償がされているか、謝罪がされているかといったことをめぐり、日韓関係を揺るがせています。
しかし、その労務動員ということについて、歴史学としての研究はさほどなされていないようです。
そのため、現在の日韓関係を論じる場合でも過去の事実を引用する時に誤解や間違いがしばしば存在するようです。
著者は、近代研究を専門とする歴史学者としてこの問題についてできるだけ残された資料を精査しそれに基づいたものを整理しようとしました。
残念ながら、こういった歴史研究を日本側で取り組んだという例はほとんど無かったようです。
また、近年韓国政府が中心となってその調査が進められていますが、まだ全体像を解明するような報告はされておらず、不十分なものとなっています。
しかし、朝鮮人の動員というものは当時の日本政府の計画に基づき日本の行政機構が遂行したものである以上、日本の政府にその事実調査を行う責任があるのですが、日本人歴史研究者としても積極的に関わる責務があるということで、著者が取り組んだ成果がこの本となっています。
ただし、この本では軍人・軍属の動員と慰安婦については扱わず、労働者の労務動員のみに限定しています。
あまりにも大きな問題であり、多くの研究者の取り組みが望まれるところです。
日本が朝鮮を植民地として以降、あくまでも日本帝国のためではあるものの、半島一帯にインフラ整備を進め、一応近代的な文物や制度を持ち込みました。
しかし、ソウルのような都市部はともかく、朝鮮全体についてはあまりその動きも波及しませんでした。
1935年時点で、都市部に住む人口比率は7%のみ、ほとんどは農村部で農業に従事していました。
また、朝鮮総督府は教育に力を入れ、就学率も上がったと誇りましたが、実際にはやはり1935年で就学率17%、日本語理解率は10%未満といった程度に留まっていました。
ただし、これはハングル理解率でも同様で、戦後の南朝鮮の調査でも22%しかなかったということです。
また、農村の生活困難が激化し、植民地化の中で自作農から小作農への転落が多くなりました。
朝鮮の人口の大半を占めていた農家の経済状態が非常に悪化していったということになります。
そのため、生活困窮となった人々が満州や日本内地に向かって移動することが多くなりました。
日本内地では、日中戦争が激化した頃には労働力不足に陥っていきました。
これは、兵士として出征したために労働者が減ったせいとばかりも言えないようです。
1930年代には重化学工業が増加し、そちらに労働者が移動したということもありました。
それに伴って、炭鉱などの鉱業分野で労働者が減少していきます。
これには、その分野の労働者待遇が元々非常に悪かったという問題があります。
給料は他産業と比べても低く、さらに死者が出るような事故が頻発、そのため辞めようとする労働者を暴力で強制するなど、前近代的な労働条件でした。
それが戦争激化するに従い石炭の需要が増えていったにも関わらず、労働環境を上げようという機運にはならず、人手不足を何とか埋めようと政府に泣きつくばかりでした。
それに引きずられた日本政府が朝鮮から炭鉱労働者を集めようとしたのがこの問題の大きな部分となります。
現在も日韓関係に刺さった棘のようなものが「徴用工問題」ですが、実は「徴用」というのは厳密な意味があり、国民総動員法が施行された中に「国民徴用令」というものもあり、日本内地でも実施されていましたが、それを朝鮮半島にも適用しようとしました。
しかし、この「徴用」というものは現在の職業や住居を離れ国の決める就業場所に強制的に赴かせるということを伴うため、その補償ということも考慮されていました。
朝鮮半島にこの徴用を適用したのは終戦が迫った一時期のみであり、それ以前は厳密には「徴用」ではなかったということです。
ただし、それには内地のようなきちんとした補償無しに連れてくるというものであり、徴用よりかえって現地の人々には苦難を与えるものでした。
また、日本内地の人手不足に悩む企業などでも、朝鮮人受け入れには積極的ではなく、日本語は習熟していることとか、思想堅実、身元確実、身体強健など条件ばかり厳しくしており、上記のようにほとんど日本語も話せず技能も無い人々の受け入れに難色を示していました。
それでも戦況が進むに従い各地で人手不足が悪化し、半島からの労働者に頼る状況となっていきます。
そのような行政組織も整っていなかった半島で、「協和会」という送り出し組織が作られていきます。
その中心となったのは現地の警察官で、それに朝鮮人の有力者が協力していくことになります。
それ以前にも半島から内地に移住し労働に従事した人々が多く、彼らを頼って内地に渡る「縁故渡航」という人々も数多くいました。
しかし、彼らは通常の工場勤務、平和産業という分類の産業に流れていき、条件の悪かった炭鉱などには見向きもしませんでした。
それでは困るということで、縁故渡航をできるだけ禁止し、国の行う渡航者募集の方に集中させるということも行われました。
しかし、少なくとも自身の希望で縁故渡航をした人々とは異なり、自発的に内地渡航を受け入れる人々は少なくほとんど必要数を充足しなかったために、かなり強引な人集めが行われることとなります。
これがあとで「強制連行」と言われることとなります。
半島の労働力調査も繰り返し行われ、どれほど余剰労働力があるかということが調べられますが、半島内にはあまり工業が発達していなかったために、工場労働者という人々もほとんどいませんでした。
そのため、多くの人員は農村に留まっている農業従事者たちでした。
その産業形態も古いままで人力に頼るものが多く、そこから労働者を連れて行かれれば農業生産自体が困難になるため、彼らの内地渡航に対する抵抗も強かったのですが、そこにさらに強制的な圧力をかけて労働者として集めることになります。
そこには、各地の警察官、朝鮮側の官吏の他に「労務補導員」という人々も関与していました。
これは公務員ではなく「事業主の雇用する職員または関係産業団体の職員」であり、つまり日本内地側の労働者を募集している企業の職員でした。
彼らが警官や官吏とともに要員確保のために集落の各家庭を回って強制的に渡航受け入れを押し付けたということも、その後の調査ではっきりしています。
このような無理な人集めをしたために、家庭の主要な働き手を取られて残された妻子が困窮するということも多数起きてしまいます。
内地に渡って赴いた場所での労働で、きちんとした給与が払われそれを半島の家族に送るような体制が取られていればまだ救われたのでしょうが、彼らにはほとんどまともな給与も払われず、さらに送金といった方策も確立していないところでしたので、悲惨なものとなりました。
さらに、最初はそのような徴用の期限は2年間とされていました。
日本政府も彼らを長く雇っているとそのまま帰れなくなり「居座られる」ことになるのを恐れていました。
あくまでも戦争の最悪の状況をしのぐだけの意味であり、それを2年と考えたのでした。
しかし、戦況は2年たっても好転するはずもなく、結局はそのまま使役することとなります。
2年経てば帰れると信じていた労働者たちは、強制的に延長されるということになって各地で抗議活動が起き、暴動化することもありました。
逃走する人々も頻発し、労働生産性などは低下していくことになります。
敗戦となり、半島出身の労働者たちも送り返すこととなったのですが、スムースには進まなかったようです。
そのため、自発的に帰ろうとして船が機雷で沈没し死亡するということも起きました。
帰れなくなってそのまま日本に残った人々も多かったのですが、その正確な記録すらされていません。
敗戦後の混乱ということはあったのでしょうが、これも大きな問題だったのでしょう。
このような「徴用工」の人々への日本としての補償は「日韓請求権協定」で決着しているというのが日本政府の公式見解です。
しかし、とてもそれだけで片付くようなものではないということが分かります。
少なくとも「謝罪」はきちんとするべきではないでしょうか。