爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「日本語にとってカタカナとは何か」山口謠司著

現代日本語では、カタカナを使うのは外来語や擬態語、擬音語で、その他の文章では漢字混じり平仮名で書くのが普通のようです。

 

古墳時代から中国の漢字を受け入れてきた日本では、日本語を書き表すために漢字を万葉仮名として使うことから始まり、徐々に平仮名、カタカナとして改良して使ってきました。

現在の平仮名とカタカナの使い方というものには大きな差がありますが、実は歴史的にもその差というものは大きかったようです。

 

奈良時代、8世紀の最高とも考えられる知識人、吉備真備がカタカナを発明したと信じられてきました。

しかし、実際は775年に真備が亡くなった時にはまだカタカナはできあがっておらず、その50年後くらいにようやくカタカナの使用例が出てきます。

 

平安時代初期に仏教を変革する2人が出ました。

最澄空海はほぼ同時期の人です。

最澄は生まれも良く出家してからの出世も早く、遣唐使としても役付きとして選ばれましたが、自身は中国語がしゃべれずに通訳を連れていき、すぐに経典を多数得て帰国しました。

空海は同じ時に遣唐使に加わったのですが、後ろ盾も無かったので平の留学僧として渡りました。

しかし、空海は中国語が堪能であり、さらにサンスクリット語も学んでいたようです。

そのため、中国でもサンスクリット語の仏典の原典に触れ、さらにインドから伝わった密教を伝える恵果(えか・けいか)からただ一人密教原典を伝えられました。

 

なぜサンスクリット語でそのまま読むことが必要だったか。

それは、呪文としての効果を最高に挙げるためには、原語そのまま読むことが必須だと考えたからです。

中国語に訳された経典だけを持って帰った最澄密教は不十分なものでしかなく、空海密教とは大差ができました。

 

しかし、高野山を開いた空海でも、弟子にそのサンスクリット原典を伝えることはできませんでした。

恵果から伝えられた密教の奥義も、弟子の一人にも伝えることはできなかったのです。

ところが、皮肉なことに最澄の弟子の円仁が中国に渡り、サンスクリット語を習得して密教奥義にも触れることになってしまいました。

 

空海と円仁によって伝えられたサンスクリット語ですが、実は言語として見た場合、中国語、日本語のそれぞれはまったく異なる系統であり、非常に離れた性質を持っています。

日本語は膠着語、中国語は孤立語サンスクリット語屈折語と一言で言われますが、その性格はまったく違います。

さらに、発音もサンスクリット語が非常に複雑であるのに対し、中国語はやや簡略、日本語はさらに簡略な音のみで成立しています。

空海や円仁はこのような言語の性質の違いを乗り越え、翻訳し読解していきました。

円仁の日記にはサンスクリット語の発音を万葉仮名を用いて書き表しているのが残っているそうです。

もちろん、複雑なサンスクリット語の発音すべてを正確に書き表すということは不可能ですが、できるだけのことはされていました。

 

ただし、それを通して当時の日本語がどのように発音されていたのかも分かってきます。

円仁と同時代の小野小町の次の短歌は百人一首にもとられていますので、ご存知の方も多いでしょう。

花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに

 

これを当時の発音に近づけてカタカナで書くと次のようになるそうです。

パ ンニャ ンニョ イロ パ

ウ チュ リ ンニィ ケリ ンニャ

イ チャ ヂュ ラ ンニィ

ウワァ ンガ ミ ィヨ ンニィ プ ル

ンニャ ンガ メ シェ シィ マ ンニィ

 

 

その後、鎌倉時代になりましたが、平安時代からの流れで和歌文学とも言えるような文学作品も書かれました。

承久の乱を描いた「承久記」という本は漢字とひらがなを交えた古写本が残っているように、和歌文学の伝統を受け継いだものでした。

しかし、天台座主慈円が書いた「愚管抄」は歴史でも習うような有名な書物ですが、これは「漢字とカタカナ」で書かれています。

どうやら、「思想」を伝える書物は漢字カタカナ混じりで書くというのが一般的であったようです。

親鸞の書いたものでも、弟子や娘にあてた書状は「漢字とひらがな」で書かれていますが、仏教に関するものをまとめた書では「漢字とカタカナ」で書かれています。

親鸞の言行を記した「歎異抄」も漢字とカタカナで記されています。

この当時はやはり「思想」を伝えるものは漢字とカタカナで記すべきと考えられていたようです。

 

戦国時代も進み、キリスト教の宣教師がやってきました。

彼らが自らの役に立てようと綴った辞書などは、当時の日本語を知る上でも非常に興味深いものとなっています。

多くのキリスト教の文章が日本語に訳されて書物にされましたが、彼らが出版した「おらしょ」と呼ばれる祈祷文は、ひらがなで書かれています。

もしも空海や円仁であればこれはカタカナで書いたでしょうが、宣教師たちはできるだけ易しく書いて誰にでも読ませたいという思いがあったようです。

 

明治時代から昭和初期までの国語教科書は、最初にカタカナが出てきて、ひらがなはかなり後になってから教えられます。

今から見ると非常に違和感を感じますが、どうやら平安時代から文字を習う時は最初にカタカナ、次いでひらがなという順番で習うのが普通だったようで、明治期もそれを踏襲したようです。

しかし、戦前には法律関係や軍隊用語など、カタカナ混じり文で書かれるのが普通でした。

ひらがな混じり文というのは、感情を表すものというのが常識であったようです。

 

今では多くの外来語を表すのにカタカナが使われていますが、実は古くからそういった使い分けはされてきたのです。

カタカナ語というのは実は言葉の正倉院のようなものだということでした。

 

日本語にとってカタカナとは何か (河出ブックス)

日本語にとってカタカナとは何か (河出ブックス)