爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

歴史随想、もしも化石燃料というものが無かったら文明はどうなっていたか。

つい最近、比較文明史に関する本を読んでみましたが、その近代のキーワードのようなものが「西欧の衝撃」というものでした。

 

日本の例を取ってみても、戦国の世に南蛮船と呼ばれるポルトガルやその他の国の勢力と触れた時に、鉄砲というものの流入は確かに大きな衝撃を受けたのでしょうが、それは日本の技術や文化と隔絶したというほどではなく、現にあっという間に日本国内で大量に製造できるようになりました。

 

しかし、そのわずか300年ほど後になって江戸時代末に西欧各国が来襲(と言えるでしょう)した際には、その圧倒的な武力の差に開国派、攘夷派の双方ともに衝撃を受けそれに対する対抗策は必須という感覚は同様でしたが、その具体策で大きな違いが生まれたのが維新に向けた内戦の要因とも言えるでしょう。

 

ところが、その「圧倒的な差」というのが何かと言えば、結局は「蒸気船と大砲」だけのように思えます。

国内諸勢力の対応もまず、「反射炉の製造」つまり大砲に用いられるような製鉄技術から始まります。

 

この300年の間に何が起きたか。

それがイギリスで最初に始まった産業革命なのでしょうが、その基底にあったのが「石炭を用いる蒸気機関」だったと言えます。

 

この頃までには製鉄という技術も大きく進歩していたからとも言えますが、その初期の頃には木材を燃料としていために、製鉄所もフル稼働などとんでもなく、薪が確保できたら操業といった状態であったようです。

これも、石炭を使うということで大きく発展しました。

 

そして、蒸気機関の進歩によって大きな力(文字通り)を手に入れ、それがあらゆる方向に波及して爆発的とも言える発展につながりました。

 

そこで、私のお得意?の「もしも(if)」の連発です。

これは、歴史を考える上では邪道もしくは禁じ手だそうですが、文明というものを考えていく上では非常に有用な方法と思います。

 

「もしも化石燃料、すなわち石油・石炭・天然ガスなどが、地球に無かったとしたら」文明の発展というものはどうなっていただろうか、ということです。

 

なお、これが絶対にありえないとは言えなかったとは言えない、つまり化石燃料が残っていると言うこと自体、偶然や奇跡に近いものであったという考え方も必要でしょう。

 

それでは、もしも化石燃料がなかったら、始まり始まり。

 

人類文明の開始から産業革命直前まで

これはきちんと考え直すまでは気が付きませんでしたが、「化石燃料はほとんど使っていなかった」ことになります。

「燃える石」「燃える水」としてその存在は知られていましたが、燃やした時のあまりにもひどい臭気のため、家庭用のかまど燃料としても使われていませんでした。

また、戦争時の火兵器としての使用例はいくつかあるようですが、わずかなものです。

ほとんどの文明で、火力の燃料としては薪、枯れ葉や草、家畜の糞などが使われていました。

これは人類の文明化以前の段階でも同様だったのでしょう。

その点での進化はずっと始まりませんでした。

そのため、その資源に乏しいところでは燃料枯渇とともに文明衰退ということも起きていました。

 

産業革命後(と言えるのかどうか)

上記のように、石炭使用と製鉄工業の開始と言うのは直接の関連はなかったようですが、その後すぐに直結という関係になります。

しかし、そこで化石燃料がなかったとしたら、という仮定を入れると現実とは違った歴史が始まるでしょう。

 

西欧はかつては黒い森と言われたように広大な森林に覆われていたのかもしれませんが、それを切り開くことで人間が住み耕地を広げていきました。

しかしそもそも降水量も小さく気温も低いところですから、植物の生育量も小さく、再生産速度も遅いと言えるでしょう。

そのため、産業革命直前の段階でも森林という資源にはもはや余力は乏しいということになっていました。

その状況で、嫌というほど燃料を必要とする製鉄や蒸気機関が成立したはずはありません。

もしもそれにこだわっていけば、最後の一本の木まで燃やし尽くし、その後は何もできないままだったでしょう。

ラパヌイの歴史が西欧全体を覆っていた可能性があります。

 

しかし、愚かなようで部分的には知性を持つ人間ですから、そのまま全体が滅亡に向かうということはないでしょう。

 

化石燃料の圧倒的な熱量を利用はしなくても、その段階では西欧は南北アメリカを手に入れており、帆船を利用した輸送機関でその富を手中にしていました。

そこではすでにイスラム世界や中国に優越していましたので、現実とはそれほど大きくは異ならないような展開になっていたろうとも言えます。

 

いくつもの分岐点があり、西欧の自滅とも言えるような大戦争が起きていればその漁夫の利はイスラム世界に行っていたかも知れません。

 

それでは、産業革命直前の状況が固定化されたような世界になったのか。

どうも、あまり面白い結論にはならなかったのですが、それでは14~15世紀のような世界が固定化されたようなものになったのかどうか。

 

これがそうも行かなかったのかもと思わせるものがあります。

その時期に南北アメリカの開発という地球全体を巻き込むことが始まり、それは南北アメリカの植民地化ということをもたらしましたが、その一方でジャガイモやトウモロコシ、梅毒などプラスマイナス双方の資源を全世界に伝えました。

ただし、その一方で燃料の不足というものは全く解決はされなかったでしょう。

現実ではその発展の時期と化石燃料利用技術の進歩とが重なってきたために、それが歴史の必然のように感じられるでしょうが、このIFを考えるだけで、そこにあるのは砂上の楼閣のようなものだけということが分かります。

 

どうやら、すべての樹木を切り倒し燃やし尽くしたところで人類文明はお開きということに至ったのではないかと感じます。

 

現代文明にどっぷりと浸かった人々には想像しにくいものかもしれませんが「エネルギーはどんな技術を使っても”作り出す”ことはできない」のです。

太陽エネルギーにしても核エネルギーにしてもすでに存在するものを形を変えるという技術があるだけです。

その中で、「最高のエネルギー存在形態」としての化石燃料が、地球上には残されていました。

それをできるだけ丁寧に、慎重に使っていくことが現代文明を長続きさせる方策だというのが、ここから得られた教訓です。