斎藤さんの本は何冊か読んでいますが、非常に面白い切り口から本にしてしまうという中々の才能の方と思います。
この本は、「文庫の解説」に焦点をあて、様々な解説を紹介されています。
ただし、あとがきにもあるように、斎藤さんもこれまでに何冊もの文庫に解説を書いていました。
他人の解説への批判めいたことを書いてしまって、自分に跳ね返ってこないかと今更ながら気がついてしまったそうです。
名だたる名作であっても、新たに文庫に収録する際にはこれまでとは別の解説者に依頼して解説を掲載するということになります。
そのため、古い名作であれば同じ作品に対して何通りもの解説が並立することもあります。
解説者によりその見方は千差万別、それでどの文庫を買うかを決める決め手にもなりそうです。
「解説はあくまでもオマケ、しかしオマケでモノを買うこともある」ということです。
夏目漱石の「坊っちゃん」は、現在販売されている文庫だけでも10種以上あり、それぞれ別の解説がついています。
従来の単なる勧善懲悪劇とは異なり、明治の世の中で敗者である者たちの悲劇を描いているという観点を強調しています。
坊っちゃんと山嵐は、旧幕臣と会津という、戊辰戦争で負けた側の悲哀を持つということを論じています。
石原慎太郎の「太陽の季節」、庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」、田中康夫の「なんとなくクリスタル」は、いずれも発売当初から爆発的に売れ、そして社会的な物議を醸すという、「社会現象と化した小説」でした。
このような「事件的作品」を文庫に収録する際に、解説を付す解説者は次のような共通点があるそうです。
1,作品発表当時の騒動を紹介しつつ、
2,旧世代の戸惑いを軽くいなし、(あるいはあざ笑い)、
3,新世代の文学の新しさをこれみよがしに称賛し、
4,何よりも文体や感覚が新しいのだと述べる。
「太陽の季節」新潮文庫(1957)の奥野健男、「赤ずきんちゃん」中公文庫(1973)の佐伯彰一の解説は、いずれもこの原則によったものだとか。
ただし、「赤ずきんちゃん」の新刊新潮文庫(2012)の政治学者苅部直の解説は、以前の佐伯のものを逆転させ、攻撃するものとなっているそうです。
現代文学になると、その時代というものの移り変わりの激しさから、ちょっと時間が経つとほとんど背景も分からなくなる場合も珍しくありません。
1964年に柴田翔が書き、芥川賞を受賞した「されどわれらが日々」という小説は、1974年に文庫化されましたが、わずか10年経っただけでも、その主題である「地下に潜る、軍事組織、山村工作隊」という単語がほとんど死語となっていました。
これの解説を書いた哲学者の野崎守英は、これらの背景を説明することなく、作品執筆当時の作者の様子などを思索的に紹介するだけで、ほとんど解説の用をなしていなかったようです。
一般に、日本の現代文学の解説には次のような特徴が見られるそうです。
1,作品を離れて解説者が自分の体験や思索したことを滔々と語る。
2,表現や描写、単語などの細部にこだわる。
3.作品が生まれた社会的な背景には触れない。
ということで、解説を見てもまったく作品が分からず「ねえ、ねえ、どうなってるの」状態になってしまうのだそうです。
純文学作品は1970年代頃から大きく変化しました。
ただし、村上春樹の作品にはいっさい解説が付いていません。
一方、村上龍作品には多様な論者が多くの解説を書いているそうです。
ただし、初期の頃はほぼ専属解説者として今井裕康(三浦雅士)が書いていました。
どうもその解説もとらえどころのないもので、作品がますますわかりにくくなるものだったようです。
なお、最近では解説者として芥川賞・直木賞を受賞した若い女性作家が登場することが増えました。
渡辺淳一の作品など、斎藤さんに言わせればソフトポルノだということですが、これを女性作家に解説させるなど暴挙だということです。
それでも結構高等テクニックを使って褒めず殺さずうまく書いているとか。
解説に着目して文庫を読むか。相当なものと思います。