爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで」中公新書編集部編

歴史というものはすでに起きたことをたどるものですが、新たな史料が出ただけでも解釈がまったく変わってきます。

日本史の古代から現代まで、現在の歴史学会での最新の論点を、時代別に専門家が解説したものです。

学校で習った日本史というものは、私などすでに50年近く前のものですが、その頃の教科書に載っていたものとかなり変わっています。

しかも、さらに現在は様々な観点があり、それらが議論を重ねているということが良く分かります。

 

古代、古墳時代から平安時代までは国際日本文化研究センター教授の倉本一宏さんの解説です。

最初の論点は「邪馬台国はどこにあったか」です。

九州説と畿内説が争ってきましたが、実はその当時には同じくらいの勢力が日本各地に並立していたと見る方が自然です。

倉本さんの解釈では、邪馬台国は九州にあったとしても、畿内には別に倭王国というべき勢力があり、それは伝統的に日本との関係が深かった中国の呉王朝と通じていたのではないかということです。

したがって、邪馬台国の証拠と言われる纒向遺跡などもその倭王国の遺跡と考えれば無理なく解釈できるということです。

まさに、それが妥当でしょう。

 

墾田永年私財法が出されて開墾が盛んになり、大化の改新で始まった律令制が徐々に壊れていったというのがこれまでの解釈でした。

しかし、大宝律令で定められた班田制は実際にはほとんど機能せず、完成している田だけを細々と収受するだけのものであり、墾田を認めることとなってようやく大規模に開墾が進むようになったという解釈が優勢になったようです。

 

近代は慶応大学教授の清水唯一郎さんの解説です。

明治維新は「復古か、革命か、革新か」ということが問われます。

天皇という古来の存在を中心に据え昔風の言葉を使ったために復古かとも見えますが、体制は変革させており革命とも見え、さらにその担い手の多くは幕臣であったことを見れば革新とも見えます。

しかし、明治維新を担った層の知的ネットワークを見ればそれは江戸時代に始まっていたものであり、連続的な革新と捉える方が妥当なのではないかということです。

 

近代日本がヨーロッパのどこをモデルにしたのかということも、従来はプロイセン流であると言われてきました。

しかし、伊藤博文憲法調査だけを見てもイギリス、ドイツだけでなくあらゆる国の情報を参照していたことが分かります。

どうやら、一つの国の状況だけをモデルにしたわけではなく、世界各国の情勢を広く調査していたようです。

さらに、薩摩や長州と言った官軍側ばかりが重用されたというイメージがありますが、明治初期の政府には人材が不足していたという意識が強く、旧幕府側の人材もどんどんと登用されていました。

そして、大学設置の理由ともなった官僚養成ということは全国から優秀な学生を集めるということで実施されたため、旧官軍側の人材はどんどんと大学出身エリートに置き換わっていきました。

1900年代にはほぼすべての高等官が学士出身官僚によって占められるようになりました。

 

こういった歴史観の議論というものは、歴史学会内では盛んなのでしょうがなかなか外からは分かりづらいものです。

書籍などを読んでも、その著者の主張のみが記されていることが多いため、反論が分かりづらいということになります。

この本ではその両論を紹介されていたために、学会の現状というものに触れることができたようです。