爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「お好み焼きの物語」近代食文化研究会

著者は「近代食文化研究会」と称していますが、どうやらお一人の方のようです。

これがペンネーム。

 

食文化の歴史研究ということは、実は意外に行われていません。

江戸時代の方がかえって研究されているようです。

明治以降の食文化というものは、「あまりにも資料が多すぎる」ためにきちんとまとめようとする研究者が現れず、皆手控えてしまっているのだそうです。

 

そのため、そういった膨大な資料の中から、ほんの数点を見ただけであたかも「これが歴史の真実」とでも言うように発表する人が続出してしまいます。

 

お好み焼き」についてもこのような状態になっています。

たとえば国文学者池田彌三郎(大正3年生まれ)が

「屋台の子供相手の”どんどん焼き”が出世して、いつしか”お好み焼き”になった」

と書いているからといって、これが真実と思い込んで引用すると大間違いです。

また、有名な作家池波正太郎(大正12年生まれ)も

「昭和12年の浅草の”染太郎”開店時に、高見順お好み焼きという名称を発明した。それまでは”どんどん焼き”という言葉しかなかった」

と誤解したまま発言しています。

 

このような混乱と誤解の広まりを正そうと、2500以上の資料を蒐集し、コンピュータを駆使してデータベース化し、様々な語句の使用例、初出などを検索してまとめた、「執念のような調査」の結果がこの本となっています。

 

こういった、小麦粉を焼いて食べるという形態が始まったのは、江戸時代にさかのぼります。

江戸時代も末期の文化文政時代となると、町人文化も花開き、さらに「子供の小遣い」というものも史上初めて登場しました。

このような「子供の小遣い」を目当てにした商売も始まり、「駄菓子文化」というものも始まったのですが、その中に「文字焼き」(もんじやき)も含まれていました。

 

これは、現代の「もんじゃ焼き」とはかなり異なり、小麦粉に黒蜜を少し混ぜ、それを熱した銅板の上に垂らして焼いたものです。

垂らし方によって、文字を描いたり亀の子や籠の鳥といった絵を描いて作りました。

他の「飴細工」「新粉細工」といったものと同じように屋台で営業していました。

 

明治に入り、このような文字焼きの営業には、「駄菓子屋」が参入してきました。

東京の人口は増加し続けていたために、屋台の文字焼き屋も存続していましたが、いつも近くで営業している駄菓子屋というものも魅力ある存在だったようです。

 

ここにさらに「鯛焼き」「人形焼」といったものが登場します。

これには、「焼型」の発達が大きく関わります。

以前は銅板製の焼板であったものが、鋳鉄を使い鯛や人形の形を簡単に作れるものが登場しました。

この時期には遊具の「ベーゴマ」も登場していますが、鋳鉄を作る鋳物産業の発達がこれらを後押ししました。

 

このような「焼型」を使った焼き菓子は、文字焼きの出る幕を奪ってしまいました。

文字焼きでいろいろな型を焼き上げるには、職人の修練を必要としたのですが、焼型さえあれば誰にでも焼ける焼き菓子はそれを追い出してしまいました。

 

これが、文字焼きが「お好み焼き」に姿を変えた理由となりました。

皮肉なもので、このように変わらざるを得なかった「お好み焼き」はその後長く続くことができましたが、そのときに変わらずに商売を続けられた「飴細工」「新粉細工」は結局その後消えてしまいました。

 

お好み焼き」が生まれたのは、明治末期のようです。

そして、その誕生直後に子供社会では「どんどん焼き」というあだ名が付けられ、子供社会ではそちらの呼び名が定着しました。

大人は「お好み焼き」という名称しか使っていませんので、新聞や小説などの資料にはこちらの名称がほとんどです。

その当時子供だった、上述の池田、池波らの回顧には「どんどん焼き」の方が主流のような記憶となったのはこういう理由のようです。

 

さて、その明治末期は同時に「洋食」というものが海外から大量に流れ込む時代でもありました。

カツレツ、フライ、ビフテキなどの料理が紹介され、日本人向きに形を変えて普及していきました。

そこで、「お好み焼き」もそのブームに乗っていきました。

西洋料理のパロディとしての性格も持つことになりました。

当時の西洋料理といえば、「肉」「キャベツ」そして「ソース」でした。

これらを取り入れ、さまざまなパロディメニューを増やしていきました。

お好み焼き屋には「お好み焼き」というメニューはなく、さまざまなパロディ名称がついた料理が出されていましたが、その中でももっとも人気が集まったのが「天もの」と呼ばれる「天ぷら」のパロディでした。

 

これは、現在でも続いている「イカ天」「豚天」などの名称の元となったものです。

なぜここに「天」という字が入っているのか不思議に感じられるかもしれませんが、元々はこのお好み焼き自体、「天ぷら」をイメージしたものだったからです。

そして、その当時に発生したパロディ料理の中で「天もの」だけが生き残り、さらに全国に波及していくこととなりました。

 

現在では、本場のように感じられる大阪や広島では、東京から伝わったこういった天ものお好み焼きがその場で独自の発展を遂げたものでした。

また東京で別系統の発展を遂げた現在の「もんじゃ焼き」はかつての「文字焼き」とはまったく関係なしに最近始まったものです。

 

著者の執念とも言える資料集めとその整理から、以上のようにかなりすっきりとしたお好み焼きなど、庶民の食べ物の歴史というものが分かりました。

 

なお、お好み焼き以外にも様々な大衆料理の話題が取り上げられています。

 

「肉じゃがは海軍発祥」という説もあります。

昭和13年に海軍経理学校が発行したレシピが最初だということですが、肉じゃがと言えるような料理といえば、すでに大正末期にはあちこちで記録されています。

肉も牛肉だけでなく豚・鶏も使われており、古くからかなり広く作られていたことが分かります。

 

現代では、屋台やお好み焼き、たこ焼き、串焼きなどは大阪が本場と言った感覚ですが、かつては大阪など上方が和食の本場、路上屋台で食べるようなもの(昔は天ぷら、寿司もそれに含まれます)は江戸・東京が本場だったということです。

さらに、明治以降は西洋料理、中華料理も東京中心に広まっていきます。

 

日本では洋食にはウスターソースというのが習慣化してしまいました。

そのため、洋食のパロディとして発展したお好み焼き、そしてそこに派生した「焼きそば」にもウスターソースを使うというのが定番となっていきました。

この「ウスターソース」、もちろんイギリスのウースターシャーのソースそのものではなく、日本には明治20年代からイギリスからの輸入品として「リ-アンドペイリン」社のものなどが入ってきました。

しかし、実はこの「リ-アンドペイリン」社のウスターソースなるものは、当時は中国産の醤油をイギリスに送り、そこで若干のスパイスを加えて瓶に詰めたもので、それを日本にさらに送ったものだったそうです。

したがって、現在の市販のウスターソースなどとは全く異なり、醤油主体のスパイス辛さのあるものでした。

 

したがって、お好み焼きも焼きそばも、そのウスターソースを使っていたのですが、場合によっては醤油を使うところもあり、それほど違いはなかったようです。

また、国産でもウスターソースを作るところもあり、それらは「偽ソース」と認識されていたのですが、実際は日本産醤油を使っているだけで英国産のものとそれほど違いもなかったとか。

 

東京で、お好み焼き屋が急速に流行っていった昭和初年、その立地は花街の周辺が多かったそうです。

そこでは、芸者や半玉(芸者見習い)が客と二人でやってきて、焼いて食べるといった風俗が見られたとか。

鍋料理の発達もこういった状況での営業が多かったらしく、芸者が結ばれぬ客と二人で家庭料理を食べるような状況を作り出すということで、流行ったという理由もあるようです。

 

非常に興味深い話で、しかも先行する説の不備を遠慮なくズバズバと指摘するという、爽快感も感じられるという本でした。

 

お好み焼きの物語 執念の調査が解き明かす新戦前史

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