爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで」深井智朗著

キリスト教プロテスタントといえば、マルティン・ルターが当時のカトリック教会の腐敗に異議を唱え、新たな一派を起こしたものの、それから長らく新旧両派の対立が続いたというイメージです。

また、イギリス国教会プロテスタントに入ると聞き違和感も感じました。

さらに、多くの教派があり様々な教義があるようだということも何となく聞いていました。

 

そういった、プロテスタンティズムについて、その歴史から各国の状況、現代まで幅広い内容でつかめるように、特にドイツプロテスタントの研究者の深井さんが解説書として書かれたものです。

 

その発端は有名なものです。

修道士であった神聖ローマ帝国(現在のドイツ)のマルティン・ルターは、当時の教会がローマのサン・ピエトロ大聖堂修復のために売り出した「贖宥状」(しょくゆうじょう)(「免罪符」というよりこちらの方が意味にふさわしい)の存在に違和感を持ち、とくにそれを率先して販売していたマインツ大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルグに対して「95か条の提題」をヴィッテンベルク城の教会の扉に打ち付けたのが1517年10月31日と言われています。

 

ただし、現在の研究によればそのような劇的な行動ではなく、読んでもらう相手に書簡として送ったようです。

また、その後の展開はともかく、ルター自身はプロテスタントであるという意識はなく、あくまでも教会の改革や刷新を望んでいても、新たな宗派を開こうなどという考えはありませんでした。

ドイツでは「プロテスタント」という呼び方は行われず、初めの頃は「アウグスブルク信仰告白派」、現在でも「福音主義教会」と呼ばれています。

 

ルター登場に至るヨーロッパの状況は、それに先んじてのペストの大発生や飢饉により多くの人が死ぬという、非常に「死」というものが身近に感じられる時代でした。

教会の役割も信者に死と天国への昇天とを信じさせることにありました。

キリスト教の教義の理解や普段行われるミサというものは、信者のみならず実施している聖職者にもその意味がよく分からないものになっていました。

それと「贖宥」ということがつながってきたのには、ゲルマン人が伝統的に強く持っていた「損害と弁済」の意識が影響しました。

彼らは古代から誰かに損害を与えるとそれに対する弁済を求められ支払うという慣習を持っていました。

それが、キリスト教的にも「罪を犯す」と「金を払って弁済する」ということをつなげるという「贖宥状」の制度につながっていきました。

さらに、弁済には「代理」の制度があるというのもゲルマン法の伝統でした。

教会に金を支払い贖宥を代行してもらうというのも受け入れやすい制度でした。

 

そのような状況で売り出された?贖宥状は、社会的に大成功し、多くの教会も大々的に売り出すということになりました。

 

このような事態に、マルティン・ルターは我慢なりませんでした。

贖宥というものの解釈はとても聖書の教えとは相容れることはできないと感じました。

そして、こういった贖宥のシステムについて広く世間に討論を呼びかけたのでした。

 

しかし、教会でこういった金蔓に依存していた人々にとっては、ルターの問いかけは厄介なものでした。

教会は反発したものの、都市部の商人、諸侯たち、騎士たちにはルターの意図が理解されました。

そのため、ルターの同調者が広がっていく中で教会側も反発の動きを強めます。

バチカンは1518年にはルターへの激しい批判を強め、ルターは異端だと強調します。

そして、ルターの異端審問を始め、1521年にはルターを破門しました。

しかし、ルターもそれにより本腰を入れて教会改革の動きを強め、ドイツ国内の協調者である諸侯たちに守られ、多くの著作を出版し、影響を広げていきました。

 

ルターはその後亡くなりますが、その後継者たちはさらに改革を進め、ルターの意図に反して一つの宗派としてのプロテスタントを生み出すことになります。

それは、カトリックの側の反省も生み、宗派としての結束を強めるような動きも見せました。

また、バチカンという総本山を失ったプロテスタントは、それに代わる判断基準を必要とし、それに聖書を当てることになります。

ただし、聖書の読み方というのは人により全く異なり、さらにそれを調整するという機能も無かったために、プロテスタントと言いながら多くの分裂した宗派ができることになりました。

 

特に、プロテスタンティズムにも「古プロテスタンティズム」と「新プロテスタンティズム」の大きな2つの流れができてしまいます。

帝国の宗教として、体制化した特にルター派を「古プロテスタンティズム」、それと対立し特に新世界に逃れた再洗礼派、パブテストなどを「新プロテスタンティズム」としています。

 

ルター派はドイツでずっと国の政体と結びつき、保守主義としてのプロテスタンティズムとなりました。

1871年にドイツが統一されたときも、それはプロテスタント国家であったプロイセンが主導していたため、ドイツ帝国自体もルター派によるナショナルアイデンティティーを設計させることとなりました。

その当時、同じドイツ系民族のオーストリアを含むかどうかも問題となりましたが、オーストリアカトリック教国であったために除外されました。

 

第1次世界大戦を戦ったドイツ帝国、第2次世界大戦のナチスの双方ともルター派は結びつき、戦争遂行に協力しました。

 

ただし、第2次大戦敗戦後の西ドイツ(ボン共和国)においても、やはりルター派と国家の関係は形を変えながらも続いているようです。

しかし、東西ドイツ再統一後には、ルター派教会の信者の減少が顕著になり、影響力は弱まっているようです。

 

一方、アメリカの洗礼主義はリベラルだと言われています。

国家の宗教統制に反対して個人の自由を重んじるとしてヨーロッパから逃れてきたために、そういった性格が付けられました。

しかし、そのような新プロテスタンティズムでは、教会が乱立し多くの宗派ができてきました。

このような「民営化」と「自由化」というものが、アメリカでは宗教の世界でも起きてしまい、町にはいくつもの宗派の教会が立ち並び、人々はそれを選んで通います。

競争を制し、市場で勝利を収めるという、マイクロソフトやアップルのような教会が出現しています。

そのため、アメリカでは社会的な地位により通う教会も変えていくという慣習もできており、バプテストやメソジストといった庶民的教会に通っていた人が、仕事で成功して中間管理職になると会衆派や長老派の教会に換える。

さらに経営者や議員になるとアングリカンに換えるといった具合です。

 

アメリカでは公立小学校でも毎日「神のもとにある共和国」に忠誠を誓います。

その「神」とは何なのか。

大統領就任でもオバマは「神の祝福がこの国にあるように」と言いました。

この「神」は何なのか。

これは、限りなくキリスト教の神に似ているが、やはり違うと宗教社会学者ロバート・ベラーが述べたそうです。

 

巻末には日本のプロテスタンティズムについても述べられていますが、それはもう略。