内田樹さんが近々出版される、「そのうちなんとかなるだろう」という本のあとがきについて書かれています。
そこではなんと、「自叙伝」のようなものを書いているそうです。
「あんたら若い人は知らんじゃろうが、昔の日本ではのう・・・」と遠い目をして思い出話を語る古老
のようなスタンスで書いても良いだろうということですが、内田さんも68歳、また読者はかなり若い層を想定しているようですので、まあそれで良いのでしょう。
1960年代の中高生が、どのように考えどのように生きていたか。
同世代の作家たち(村上春樹、橋本治、関川夏央、浅田次郎などのみなさん)がその作品の中で色々と書かれていますが、それらは「フィクションとしての磨きがかかっている」ので、実際のもっと泥臭く、カオティックで、支離滅裂な青春を書いてみようということです。
良いですね。この抑えた書き方。
「フィクションとしての磨き」なんていうことは、やはりなかなか書けません。
私なら、「アイツラの書いているのはカッコつけのウソばっか」とでも言いそうです。
その後の細部については、ここでは書かれていませんが、最後まで書いて読み直してみて、「自分の人生には『人生の分岐点』がまるで無かった」と感じたそうです。
これは、もちろんどこかの大学の入試に受かったとか落ちたとか、就職を別のしたとかいうだけの意味ではなく、そのどちらに行っても大して違ったことにはならなかっただろうということです。
それだけ、ご自分の生活というものが自分の意志と好みによってきっちりと決めてきたからということなのでしょう。
どの道を取っても、今の自分と同じような自分であったろうということですので、立派なことだと思います。
と、内田さんの人生を称賛しておいて、自分の人生(内田さんより少し年下ですが)を思ってみると、実は「私も分岐点で別の人生を歩いていても、今と大して変わらなかっただろう」と思えるのです。
確かに、暮らす町、家族、経済状態は大きく違っていただろうが、基本的には同じようなことをしていたと感じます。
別に、自画自賛ではないのですが。