鎌倉幕府の滅亡と南北朝の騒乱、それを引き起こした要因の一部は、後醍醐天皇という天皇家史上稀な存在にあります。
「賢才」か「物狂」か。その評価は大きく別れます。
この時代は、古代からつながっていた社会構造を一変させ、それまでの血縁や地縁が深かった共同体のつながりから、一揆や一味同心といった人の結びつきに変わっていきました。
文化史的にも能楽や茶の湯、生け花など現在「日本的」とされている文化は南北朝の後に始まるということになります。
そのような激動の時代を作り出したのには、後醍醐天皇の活動というものが大きく寄与していたと言えそうです。
後醍醐天皇(尊治親王)は、後宇多天皇の第2皇子として生まれました。
その当時はすでに天皇家は持明院統と大覚寺統に分裂し、両統から交互に天皇に即位するという慣行が行われていました。
さらに、大覚寺統でも後宇多天皇の嫡子が後二条天皇として即位し、その皇子もいるために本来ならば尊治親王は皇位につけないはずだったのですが、兄の後二条天皇が急死し、その子の邦良親王が病弱であったため、急遽尊治が立太子することとなりました。
しかし、父の後宇多上皇からは、その位は一代限りのものとし、邦良親王に返すという条件付きのものでした。
その時の天皇は大覚寺統の花園天皇でわずか12歳、尊治皇太子はすでに21歳でした。
さらに、尊治皇太子は政治基盤を強めるため?鎌倉幕府とのつながりの強かった西園寺家の娘を「密かに盗み取って」妃にしてしまうという行動も取ります。
子供まで作ってしまい離すわけにもいかなくなりました。
立太子から10年、その後の両統交互の即位という原則で合意する「文保のご和談」というものが成立し、花園天皇が譲位し後醍醐天皇が即位します。
さらに、その当時院政をしていた後宇多法皇も引退することとなり、ここから後醍醐天皇の親政が始まります。
鎌倉末期に日本に伝えられていた、宋学と呼ばれる儒学の一派が非常に栄えることになります。
日野資朝、日野俊基といった中流貴族出身の英才の引き立ても目覚ましいものでした。
こういった後醍醐天皇の人材登用は、彼らに続く中流貴族たちに中国の「士大夫層」という意識を生み、さらに宋学との結びつきを強めたようです。
後醍醐天皇の意識にも宋学で説かれているような中国流の中央集権的国家のイメージがありました。
それが「新政」と意識されたのでしょう。
その後、倒幕の動きとそれに対する幕府側の対応、さらに名和長年や楠正成などの挙兵といった動きが強まり、幕府は倒れますが、足利尊氏との争いが始まり南北朝時代へと移っていきます。
南北朝時代の2つの王朝のどちらが正統であるか、ということを論じることが行われたのは、江戸時代になり徳川光圀が「大日本史」をまとめた頃からのことのようです。
大日本史では、明確に南朝を正統とし、北朝を閏統(非正統)としています。
これは徳川光圀が特にこだわった意見だったようです。
ただし、それは朱子学の正統論などが影響を与えたというよりは、徳川家康が清和源氏新田流からの出自を唱えていたためのようです。
その系図は怪しいもので途中が数代飛躍しているようなものなのですが、とにかくその系図で源氏からの系統を主張した以上、新田義貞が守ろうとした南朝が正統であるということだったようです。
後醍醐天皇の起こそうとした新政(天皇中心の中央集権国家)というものは、近代以降にまで影響を大きく与えています。
今でもそれをしっかりと考えていかなければならないのでしょう。