安倍首相の「悪夢発言」について、国会の議論で批判されたときに、安倍首相が「私には言論の自由がある」と発言したそうです。
それについて、内田樹さんが自身のブログに、10年ほど前に書いた文章を再録しました。
もちろん、安倍首相が「言論の自由」について、完全に誤解している(曲解している?、しかしそれほど言葉を知っているはずもないか)ということを論証しているわけです。
ただし、これを読んで私自身もちょっと反省させられるところがあります。
ネット上でいろいろ発言する人があっても、その殆どは「匿名」であると指摘しています。
言論を責任を持って発する人や、科学者などは、自分自身の発言であることを明らかにしなければ存在価値がありませんので、匿名での発信はありえません。
しかし、ネット上で発言する人のほとんどが匿名であるのはなぜか。
それは、彼らが発するのが「呪い」であるから。
ああ、まさにそのとおりだなと大反省。
私のこの前の「悪夢発言」批判記事も確かに「呪い」そのものでした。
呪いを発する人間が匿名であるのはなぜか。
それは、呪う人間は社会の中で自分自身を致命的に傷つけ、損なってしまうからです。
「呪う人間」は社会から呪われると言うのは、古代社会だけではなく現代でも同様です。
「言論の自由」は、それを発する場に敬意を持ち、その場の言論に対する審判力を信じるもののみに存在する、つまり、言論を発する場によって、自分の発言が評価されることに同意するもののみに許されると言うことなのでしょう。
安倍首相の発言をこの原則によって判定すると、次のようになるのでしょうか。
安倍は自民党大会という、一見身内の会合のようで全国につながる場で「悪夢のような」と言う発言をしました。
それは、当然各方面に取り上げられ、批判を受けたり、(中にはこういうのもいるかも)賛同の意を受けたりします。
そのような発言であることが、「言論の自由」であり、その批判に対して「私には言論の自由がある」(つまり、何を言っても良いんだ)ということは、間違っている。
このように、内田さんは自らの以前の文章を再録し、安倍の発言の基本から批判しているわけで、さすがと言うしかありません。
私は、このように「爽風上々」というペンネームでの発言で、もちろん匿名です。
匿名で、この前のように「呪い」とも取れるような感情的な非難をしてしまいました。
反省しなければ。
なお、私も別の場所では実名での発表もしています。
確かに、そこではその発言の内容に自信を持ち、あわよくばその発言で認められたいという隠れた欲望も持っていることは事実です。
そこについても反省かな。
しかし、まだまだ当分はこの「爽風上々のブログ」には「呪い」がかなり入ってきそうですから、匿名は継続ですね。