古代から中世までの文学史が専門であった中小路さんですが、中国唐代の詩人が日本からの留学生などに送った詩の言葉の意味などを考えるうちにおかしなことに気づきます。
さらに、「九州王朝説」を唱えた古田武彦氏の主張に触れ、それまでの疑問が氷解します。
これまでのすべての日本人が、大和王権は初めから日本の中央政権であり続けたという「一元通念」を信じてきたのですが、それは誤りであったということです。
それに気がついてみれば、古事記や日本書紀などの日本の歴史書や、旧唐書、新唐書といった中国の歴史書の記述、仏教の日本伝来の年代の矛盾などがスッキリと説明のつくこととなったということです。
ただし、中小路氏はあくまでも文学史学者であり、考古学的遺物の対応などにはまったく興味がないようで、それについての記述はありません。かえってそういう態度がはっきりとしていて清々しいほどです。
そのような発見を次々と発表していっても、古田説と同様に歴史学会の大半は中小路説に対しても議論すらせずに無視し続けています。
それに憤慨したのでしょうが、死去する寸前まで自説の正当性を主張しました。
本書はそのような遺稿をまとめたものです。
「一元通念」と名付けている、「7世紀以前から日本列島上には8世紀以降に連続する近畿大和の政権以外に中心的勢力はなかった」という前提は、さまざまな説が発表されたとしても常に崩れること無く存在し続けてきました。
しかし、この前提、もしくは通念は決して証明されたものではありません。
中小路氏はこの通念がいつからどのように広まったかということも検証しようとしましたが、それは証明されたものではなく、いつの間にか広まってしまったように見えるそうです。
そこに疑問を投げかけたのが古田武彦氏の九州王朝説ですが、学会はそれに対してまともな議論をすることもなく、無視するばかりでした。
しかし、それがいかにおかしいことか、中小路氏の発見した根拠が列挙されます。
神武東征は史実そのままとは考えられていませんが、何らかの事実を反映しているとは考えられています。
その記述は日本書紀成立時の政権の考え方に支配されているはずですが、そこには「遷都」という考え方はありません。
それ以前に政権のあった日向から、大和に移ったのなら神武はその前から天皇または王であり、移った先には「遷都」したはずですが、そういう記述はなく、大和に入って「天基を創生する」すなわち新たに王朝を建てたとしています。
これは、日向(九州)には主たる王朝がある一方で未開の大和に入り別の王朝を建てたということを表したということです。
唐代に阿倍仲麻呂は唐に渡り王朝に仕えました。長年の在唐ののちにようやく帰国するとなったとき、それまで深く交際してきた友人たちから送別の詩を送られます。
詩人として著名な王維からも送られた詩には仲麻呂が帰るところを「扶桑の外」と表しています。
扶桑とはそれまで長く倭を指すものとされていました。仲麻呂がやってきて、これから帰る場所は扶桑ではなく、その外の別の島であるということが王維にも理解されていたようです。
それを理解した上で、隋書や唐書といった当時の中国の歴史書を見直してみると、その事情がはっきりとします。
倭国は元の奴国と同じで阿蘇山のある山島に存在し、古くから中国諸王朝に冊封されてきました。
しかし、倭国とは別種の日本国と言う国の使節が来訪し、日本はもとは小国だが倭国の地を合わせたと自称していると言ったそうです。
これまでも、このような中国史書の記述は知られていましたが、日本では誰もがこの記述は中国人の誤解であるとして済ませていました。
唐に入朝した日本国の使者は、はじめは唐人からは疑われたそうです。
しかし、使者は弁明として次のように述べています。
日本国(大和王権)はこれまでの倭国と同じ家系に属するために、易姓革命ではない。
日本国はこれまで中国に冊封されたことはない。
この陳述は中国史書に記録されています。
しかし、何らかの日本列島に存在する政権が、漢以来の中国王朝に入朝し冊封されていたのは紛れもない事実です。
そして、それは自分たちではないということを日本国(大和王権)は明言しているということです。
そうならば、倭の五王などという王たちも明らかに九州政権であったということでしょう。
九州政権が没落したのは、古田説と同様に白村江の敗戦を契機としてのことのようです。
そして、大和王朝の持統帝から孫の文武天皇への譲位が九州政権を打倒し大和政権が全国を平定した時だということです。
固定観念にとらわれると見えるものも見えなくなるということなのでしょう。
どちらが見えていないのかは明言を避けますが。