論理学とは、「思考のつながりを明らかにし、論証を過不足なく行う」ことで、中国やインド、ギリシアの古代文明でもその発展が見られるほど古くから研究が重ねられてきた哲学の一分野です。
しかし、それと似て非なるものが「詭弁」(きべん)です。
一見論理的に見えるような議論を展開しながら、どこかで意識的に、あるいは無意識にごまかして持論を押し通すということが、社会の多くの場面で横行しています。
本書は数学者でありながら数理論理にも関心を持たれ、数々の著作も書かれている野崎さんが、「詭弁」を「論理」のごとく使うということについて分かりやすく解説されています。
野崎さんの本を最近読んだこともあり、かなり以前に読んだこの本をもう一度読み返してみました。(1976年初版発行)
議論というものは、これも人類の文明の初めからつきまとってきましたが、論理的に展開されることが望ましいものの、そこには様々な場面が見られました。
本書の最初には、詭弁にもならない「強弁」が取り上げられています。
強弁を操る人々には、小児型強弁と言われるような、意識せずに使いこなす強者?も居ますが、はっきりと自覚しながら強弁を押し通す輩も数多く存在します。
社会的強者にこういった人物が多いのも当然といえば当然ですが、困ったものです。
詭弁というものも、強弁と同様に歴史の始まった頃から人間社会に出現していましたが、強弁よりはちょっとは頭を使ったもののようです。
ギリシアでは、ソクラテスやアリストテレスなど、言論を武器にして真理を追求する哲学者が輩出しましたが、その中には弁論にのみ長けたソフィストと呼ばれる人たちも出現してきました。
中国でも諸子百家の時代に詭弁の隆盛を見ることができます。
公孫龍の「白馬は馬ではない」といった事例にもそれが現れています。
その手法としては、論点のすり替え、それも上手にはぐらかすという芸があります。
また、主張の言い換え、部分より全体に及ぼす誤り、逆に全体より部分に及ぼす誤りといった手法もあります。
三段論法の援用、消去法の失敗といったものも使いみちが多そうです。
まあ、実用として詭弁を使うというのはお薦めできませんが、論理パズルとして考えてみることは論理の練習にもなり、頭を柔らかくできる効用もありそうです。
理髪師のパラドックス、死刑囚のパラドックスといった著名なパズルも解説してあります。
まあ、詭弁を多用しては人物の評判にも関わるかもしれませんが、パズルとして考えるだけなら勉強になりそうです。