著者の大友さんは、ギタリストや作曲家として活躍されていますが、学校の時は音楽の授業が大嫌いだったということです。
その大友さんに名古屋の東海中学の生徒さんが、「学校で教えていない自由な音楽の授業」をやってくれと依頼し、そこで大友さんや知り合いの音楽家を交えての授業、そしてそこから発展して障害児や不登校の児童などを相手にした音楽授業を行い、その実施過程をそのまま読めるようにした本だと言うことです。
最初の授業では、クラリネット奏者の大熊ワタルさんとパーカッション奏者の上原ななえさんを交え、参加者が自由に楽器を触り音を出し、他人の音に合わせながら進めていくことで一つの音楽となると言う体験をさせます。
こういった体験は普通の学校の音楽の授業ではありえないものです。
普通の音楽の授業では、楽器を扱う場合でも、「音楽とはこういうものだ」ということを教えた上で、ドレミファはこうやるのだという教え方をします。
しかし、音楽というもの全体を見渡しても、「ドレミファ」というものはごく一部のヨーロッパ音楽のきめごとでしかありません。
それだけが権威のように教えられることで、現在音楽家として活躍されている人の多くが音楽の授業というものに反感を覚えたという経験を持っています。
テニスコーツと言うグループで音楽活動をしている、さやさんという歌い手を招いた授業では、「音痴なんていない」ということを教えられます。
しかし、学校の音楽授業では誰もが「皆の前で歌わされる」という嫌な体験をさせられており、著者の大友さんも、さやさんも、学校の授業では嫌な思い出を持っています。
障害児を対象とした音楽療法というものも流行していますが、色々な試みがなされているようです。
確かに、成果を上げられることもあるようですが、簡単なものでは無いのかもしれません。
「すでに作られている音楽」の中に「障害者も入っていける」という形のものもありますが、そこでもある程度の成果は出るようです。
しかし、本書の中で音楽療法士の沼田理衣さんという方が語っている「音遊びの会」では自由な音とのふれあいというところから入っていけるようです。
私も、今でこそ地域の合唱団に参加して歌っていますが、たしかに学校時代の音楽の授業というのは嫌いでした。
皆の前で一人で歌うなどは、恥ずかしいばかりでした。
多くの人にこう思わせるような音楽教育というのは、やはりどこかおかしいんでしょう。