本書まえがきにあるように、この本の題名だけ見ると、学校の教室で生徒が先生の言うことを理解することについて語る教育論や、社会や事象の仕組みを理解する方法を解説しているように一般には感じられるだろうが、この本では科学技術に関して「科学における説明と理解」と言うことを扱っているということです。
著者は、工学者であり、京都大学で教授、工学部長から、本書出版当時は総長に在職ということで、根っからの技術者・科学者だったということでしょう。
私も、この本の題名だけ見て、「認識論」的な内容かと思って読み始めたので、少し期待はずれだったとは言えます。
ただし、科学技術の理解と言う意味では基本的なところから解説されており、その意味では深い内容となっていたと感じます。
まず最初は、現代社会と科学技術進歩の現状、とくに多くの分野で非常に高い段階まで進歩してしまったために、一般の人ばかりでなく科学者の間でも少し専門分野が異なると完全な理解が不可能であるということです。
そのためには、「科学技術ジャーナリスト」と言う役割の必要性が高いのですが、欧米と比べても日本ではこういった人材が育つ余地がありません。
それがますます高度な科学技術への一般の理解を難しくしています。
次いで、科学的説明の解説、そしてその根底にある推論というものの不完全性などについて解説されています。
このあたり、やや難しい内容になっているようです。
さらに、説明文の作り方というところでや、言葉そのもの、適切な言葉を適切に使うことの難しさ、読んで分かることの難しさを説いています。
また、文章構造にも危うさをはらんでおり、メタファーを使えば分かりやすいが危険性も大きいと言うことも理解できます。
例としてあげられているのが、
「50ヤードなので柔らかさが重要であった」という文です。
文法的には間違いはないのですが、一読して何を言っているのか分かるのは自分でゴルフをやる人だけでしょう。
ホールまでの距離が50ヤードと言う近距離になれば、ボールを高く上げて落としてあまり転がらないように打つのが良いので、柔らかくスイングすることが必要だと言う背景が理解できなければ、この文章の意味を感じ取ることはできません。
科学技術についての文章も同様だという、これも「たとえ」なのでしょう。
このように、科学技術について一般の人に伝え、「わからせる」ということは難しい問題を含んでいますが、巨大技術のように莫大な費用を必要とする分野など、国税を投入する場合などはどうしても一般の人に説明する必要があります。
その場合にどうするかは、科学者、技術者一人ひとりに責任があります。
なんとか、乗り越えていかねばならない問題なのでしょう。。