西南戦争では薩摩を出た反乱軍は熊本城に襲いかかったものの、それを落とすことができず、周辺の田原坂の戦いなどで敗れ、大分や宮崎を通って敗走し最後は鹿児島に戻って城山の戦いで敗れました。
しかし、その間現在の鹿児島、熊本、大分、宮崎の各地を転戦し戦ったために、それらの地域の民衆には大きな影響を与えることとなりました。
さらに、民衆には薩摩軍によるものだけでなく、政府軍の動きによっても様々な被害を受けることにもなりました。
そういった民衆の側から見た西南戦争というものを、多くの埋もれかけた史料を基に拾い上げていったのが本書で、著者の長野さんは熊本県の南阿蘇村の出身であり、そこも薩摩軍が来襲した場所でもあります。
軍隊の規模によっても、影響の大きさは変わります。
薩摩軍の人数ははっきりとはしませんが、おそらく6万人程度は居たものと推測できます。
政府軍もだいたい同様の規模であったようです。
ただし、当時の軍隊は必要な兵站輸送と言うものをまだそれほど重要視しておらず、輸送などは現地の人々を雇うか強制して徴発しやらせるということになっていました。
そのために、政府軍も必要な輸送要員は人夫または軍夫として雇用しました。
政府側は一応は給与を支払うと言うものでしたが、前線近くまで運ぶと言うことで非常に危険であり、死者も多数でましたし、それで徴発を逃れて逃げる者も多かったようです。
薩摩軍は資金の余裕もなかったので、武力で脅迫してやらせたこともあったようです。
さらに、食料や物資なども現地調達がほとんどであり、政府軍もすべてをきちんと金を払ったとも言えないようです。
薩摩軍はこちらもほとんど支払いもせず、強奪したので、民衆からの恨みも大きかったようです。
熊本城の攻防戦では、周辺の民家に火をかけ焼き払いました。これは官軍側がやったようです。
その他の地域でも民家に放火すると言うことは頻繁に行われました。
ただし、そのように被害者であるばかりでもなかったようで、戦闘時には少し離れたところから見物をするといった地元民もあり、流れ弾で見物人が死亡ということもあったようです。
さらに、官軍、薩軍双方を相手に商売をするという人々も現れ、戦場のすぐそばに出店を構え食品などを売った者もいました。
これでかなりの儲けを稼いだものもいたようです。
なお、そのような小商いの民衆ばかりではなく、西南戦争では三菱の岩崎を始め多くの政商たちが莫大な利益を得ました。その後の日本の資本主義のスタートという意味もあったようです。
西南戦争が直接の原因というわけでもないのですが、時を同じくして熊本や大分の各地で民衆の一揆が頻発しました。
薩軍と連動するということは少なかったのですが、やはり薩軍への共感はあったようです。
政府の対応もかなりこちらに割かれることとなりました。
終戦後の処理も、これ以上の連鎖を避けるためか、薩軍も処刑されたものはごく一部だけで多くは懲役刑となりました。
しかも、西郷隆盛もすぐに名誉回復、上野公園に銅像を建てられると言うことになりました。
しかし、戦争で被害を受けた民衆に対する補償はほとんどなく、わずかな見舞金だけで終わりでした。
南九州の発展の遅れはこの影響がかなり大きかったようです。
薩摩軍の敗因については、戦争直後から多くの人々が指摘をしていました。
西郷は首班として扱われているものの、実際には戦闘などの指揮を取ることはほとんどなく、常に存在も不明にされていたそうです。
神格化することで影響力を強めようという周囲の考えだったようですが、本人もそれに異議を唱えることもなく従っていました。
しかし、実際に軍の指揮を取ったと思われる桐野利秋や、篠原・別府等の首脳部にも、軍略や戦略というものが全く無かったということが、当時も言われていました。
熊本城が落ちないまま対陣を長引かせたことなど、それを示しています。
山県有朋の考えによれば、最上策は「船舶をもって東京か大阪に突入する」、次いで「長崎と熊本を急襲し中央に進出する」、「鹿児島に割拠し時機に応じて中央を目指す」の三策が良策であり、これを取られたら政府も危なくなったとしています。
しかし、薩軍は最悪の熊本城攻略に固執し不利になっていきました。
従軍した人々の日記や、地元の民衆の手記など、多くの史料を参照し西南戦争の民衆観点からの実像を描いた、興味深い本でした。