爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「甲骨文の話」松丸道雄著

中国古代の、漢字の原型とも言える甲骨文字について、その研究を専門として来られた著者の甲骨文字やその時代、内容などについての文章を集めて一冊の本としたものです。

 

すでに大学の名誉教授となられている著者ですが、その20代から現在まで書かれたものですので、統一された内容ではありませんが、様々な方向から甲骨文字というものを描いています。

 

冒頭に置かれた「甲骨文略説」は、著者20代の頃に書かれた一般向けの初歩解説とも言うべきものですが、そこから甲骨文字の概要を抜き出してみます。

 

1899年、北京の国子監祭酒の王懿栄の食客であった劉鉄雲が薬材店で見つけた獣骨に文字らしきものを見つけました。鉄雲は青銅器に鋳込まれた金文という文字にも詳しかったので、その文字は金文のさらに古い形であることに気が付きました。

鉄雲はその後もこの文字の書かれた獣骨の蒐集と研究を進め、拓本を集めて本として出版しました。

それを中国だけでなく日本の学者も研究を進め、それが殷の時代のものであり、殷王朝で甲骨を使って行われた占いの結果を記録したものであることがわかり、さらに殷王朝の実在とそれについて書かれた史記などの歴史書が正確な内容を持つことなどが明らかになっていきました。

 

 

甲骨文において、文字の形態は時代により相当変わってきたようです。

これについて、著者はある仮説を立て、それを発表していますが、学会の通説となるまでには至っていないようです。

それは、「占いを行なう貞人と呼ばれる人々は各時代にかなりの数が居たようで、同時に何人もが占いを行っていることもあるが、占いの結果をその甲骨に刻み込む”書契者”と呼ぶ人はごくわずかしかいなかった」ということです。

そのために、時代ごとに書体がかなり変わっているにも関わらず、その時代にはほぼすべてがその書体に統一されているということがこの仮説ならば説明できるということです。

 

甲骨文においては、「干支」という一連の文字が大きな意味を持ちます。

十干十二支を表す、甲乙丙丁、子丑寅卯といった文字ですが、すでに殷の時代にはこの体系が定まっていたことが分かります。

しかし、その中である時代までは「子(ね)」を表す文字が現代につながる「子」ではなく別の字が使われており、「巳」を意味していたのが「子」だったそうです。

何時頃の時代かに、その昔の「ね」の字が失われ、そこに巳であった「子」が移動し、さらに別の意味で使われていた「巳」の字が「み」に移動したのだとか。

 

甲骨文は殷王朝の後期に突然出現したかのように見えますが、これだけの体系の文字群がいきなりできたはずはありません。

しかし、それに先行する文字の証拠というものはなかなか見つかりませんでした。

ごく最近になって、山東省の丁公村というところで見つかった遺跡の中から文字のようなものの刻まれた陶片が発見されました。

これは殷王朝よりさかのぼる時代の遺跡であるということで、この文字も甲骨文に先行するものではないかと話題になったそうです。

これについて、中国の研究者の馮時さんという方が発表された論文が斬新なものでした。

それによると、この遺跡は彝族(いぞく)のものであり、この文字も彝族が作ったものだということです。

現在では彝族は雲南省に住む少数民族ですが古代では中国中央部に住んでいたようです。

彼らが文字の原型を作り出し、その後なんらかの事情で中国中央部から退いたあとにそこを継いだ漢族の殷王朝が文字も受け継いで甲骨文を作り出した。

まだ、証明されたわけではない仮説ですが、そういうこともあったかもしれないと思わせるものです。

 

現代の漢字との関係が大きな関心を呼ぶ甲骨文ですが、それを通して中国の古代が見えてくるようです。

 

甲骨文・金文[殷・周・列国/篆書] (中国法書選 1)

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甲骨文の話 (あじあブックス)

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