直木賞といっても、あまり文学に興味のない私にとっては、時々ニュースになる「芥川賞直木賞受賞者発表」でしか名前を聞くこともなく、当然ながら受賞者に誰が居たのかというこのもあまり記憶にありません。
しかし、自ら「直木賞のオタク」であることを広言し、巻末の著者略歴にも「直木賞研究家」と堂々と明記しているほどの川口さんには、十分に精力をかけて研究するにふさわしいほどのものなのでしょう。
直木賞は芥川賞とともに、1935年に文藝春秋社を率いていた菊池寛により作られたものだそうです。
当時から、芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学といった区分けは考えられていたようですが、曖昧であり受賞作が逆ではないかと評された年もあったとか。
なお、菊池寛が発案したということですが、それをきちんと形にしたのは当時の文春社の佐佐木茂索という人のようです。菊池だけではどうしようもなかったようで、その発案では文春社に原稿を送ったものの中から選ぼうかということにしていたのですが、それでは文春内部のもののようなので、他社からでも作品として刊行されたものを対象とするという佐佐木の修正でようやく今の形に落ち着いたとか。
最初はさほど騒がれもせず、菊池は「一行も書いてくれなかった新聞社があった」と嘆いたそうですが、川口さんの調査によると載せなかったのはただ1紙「東京朝日新聞」だけであり、他の新聞には好意的な記事がすべて書かれていたそうです。
それをなぜか菊池がそのような感想を書いていたために、後の世の人の中にはそれをそのまま引用してしまう者も出てしまいます。
直木賞の選考というのは、文春が選んだ候補作の中から、これも文春が委嘱した選考委員が討論して決定するわけですが、選考がおかしいという話は常に飛び交っています。
直木賞は大衆文学といっても、あまりにエンターテインメント性が強いものは選ばれず、SFは完全無視とか、推理小説は不利とか言われています。
選考の原則というものがあるようで、「同人誌からは候補にしない」「大手出版社以外の作品は候補にしない」「新書・ノベルスは候補にしない」といったものです。
大衆文学といっても、物語性よりは人間が書けているかとか、筋の運びに必然性があるとかいう点を重視するために、いわゆる「文学性」がないと残れないようです。
芥川賞と直木賞が逆ではないかということは、繰り返し言われています。
1957年には直木賞に江崎誠致の「ルソンの谷間」芥川賞に菊村到の「硫黄島」が選ばれ、騒ぎになりました。
1961年の直木賞の伊藤桂一「螢の河」、芥川賞宇能鴻一郎「鯨神」も同様でした。
直木賞に取り憑かれ、取りたい取りたいで作品傾向まで変えたのが胡桃沢耕史さんだったそうです。
1981年から「ロンコン」「ぼくの小さな祖国」「天山を越えて」の3作品で連続して落選、1983年の「黒パン俘虜記」でようやく受賞したのですが、これは直木賞受賞作の傾向に合わせて書いたと本人が告白したとか。
川口さんの見るところ、落選作の方が出来が良く、特に「天山を越えて」が一番だそうです。
とにかく、一つの権威となったものの周辺には面白い話、それに振り回された人が多いものと感じます。