爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「〈階級〉の日本近代史 政治的平等と社会的不平等」坂野潤治著

一億総中流という幻から目が覚めて、格差拡大と言われている今日このごろですが、しかし「階級」という言葉には現代の社会とは関係のないと感じさせる響きがあります。

 

しかし、紛れもなくほんの数十年前までは日本も「階級」差だらけだったわけです。

 

日本近代政治史がご専門の坂野さんが、明治維新以降の社会変革の中で階級というものがどう推移したのか、詳細に解説されています。

 

第二次世界大戦までの日本には耕地を持てなかった小作農や、ストライキを始め労働者の権利というものを何も持てなかった労働者が存在しました。

しかし、敗戦とともにやってきた占領軍が、小作農に耕地を与え、労働者には各種の権利を付与しました。

自らが闘争し勝ち取ったものではなかったけれど、一応社会革命と呼ぶにふさわしい変革がなされたのです。

 

このために、逆に日本の左翼とリベラル(革新勢力)は「社会改革」という目標を失ってしまいました。

これ以降、彼らは「平和」と「自由」の擁護には熱心に当たりましたが、「国民の生活向上」にはなんの考慮も払いませんでした。

これらの活動に執心したのは、保守政党たる自民党政府だったのです。

 

国民の生活向上をうたっていても、顔がどこを向いているかで政策は大きく異なります。

自民党政府はもちろん大企業や資産家たちのための政治をしており、その結果格差が更に広がり「平等」という目標からは離れる一方でしたが、革新勢力がそれをまともに扱うことはありませんでした。

 

しかし、「護憲(平和主義)」と「言論の自由」だけを求めてきた戦後民主主義は崩壊寸前になっています。

ここで、戦前の実際に「階級」のあったころのことを詳しく見ていくことは、現在の「格差拡大」の答えを出すことはできなくても、それを考える一助になるだろうということで、この本を書かれたということです。

 

 

明治維新を成し遂げた維新政府は、ついでそれまでの士族支配体制を終わらせます。

幕藩体制のもとでは、士農工商の身分にさらに士分の中にも細かな等級を持っていました。

土佐藩などは、侍の中にも38の格式等級があったそうです。

士分には幕府や藩から支給される家禄があったのですが、明治政府はそれを一時払いの手切れ金で廃止してしまいました。

もちろん、それまでの家禄に従って一時金の額にも大差があったのですが、その意味としては、士分の間の格式の違いを金額の違いに反映させただけで、一気に失くしてしまったということです。

 

さらに、税制を大きく変革し、自作農民から直接の税を取り立てる、地租改正を実施しました。

この時に地租を課された地主や小作農は、全国で90万人でした。

これらには、士族は含まれていません。士族40万人は土地を直接持っていなかったからです。

 

初期の明治政府は薩長を中心とした藩閥政治であり、国民の声を取り入れる機構は持っていませんでした。

そこで声を上げた人々は、最初は士族中心でした。

士族結社と呼ばれるグループを作り、政府に対する運動を始めたのでした。

しかし、その後は地主階級からの声も上がり始め、「田舎紳士」と呼ばれる彼らの結社もできていきます。

 国会の開設を決められた中で、どのような勢力が主導権を取るかという争いが続けられましたが、士族中心の勢力が優越していました。

ただし、1890年の最初の総選挙で直接国税15円以上を収めるという条件を満たした50万人の有権者はほとんどが地租を収める「田舎紳士」でした。

その選挙で選ばれた300人の議員のうち、士族が109人を占めました。

とはいえ、自由党も改進党も、構成員は士族が多いと言えどもスローガンに地主向けの「地租軽減」を入れざるを得ませんでした。

 

一方、華族令により定められた華族から選ばれる議員の貴族院は、509人の華族の中から244人を議員として選出し、衆議院とまったく同等な権限を持ちました。

まるでかつての300諸侯の復活のようなものでした。これに大きな発言権をもたせた明治政府は封建的要素をかなり復活させた身分制約的な立憲制度といえます。

 

政党が「地租軽減」を唱えても、政府の必要とする財源が乏しければ軽減することは難しく、どうしても出費を抑えざるを得ません。

しかし、当時は是が非でも軍備を整え対外的な力を増やしたいところでした。

そこが政府と、ほとんどが農村地主であった有権者との対立点であり、政府の行動を遮るものだったのですが、ちょうどその頃に日清戦争で勝利できたという幸運があり、そこで得られた国家予算の4倍もの賠償金で一息つけました。

これでようやく「富国強兵」の財源が確保できたわけです。

 

その後、民衆の声も反映せざるを得なくなり、男子普通選挙制度というものを施行せざるをえなくなります。

それが成立したのは大正14年、1925年のことでした。

有権者はそれ以前の300万人から、1200万人に増加しました。

その中には、310万人の労働者と、150万人の小作農も含まれていました。

 

しかし、その制度で最初に行われた衆議院総選挙は1928年に行われたものの、社会主義政党が獲得できたのは46万票に過ぎず、労働者と小作農の90%は政友会か民政党に投票したのでした。

 

その後は、政党と軍部が絡み合って戦争に向かっていくこととなります。

なお、総動員体制を取ったことが、労働者や小作農の発言権を上げることにつながったという見方もありますが、実際はそのような総力戦が無かったとしても格差の是正は進んだのではないかという見方を著者はされています。

徐々にではあるが、無産階級の政党の得票率は上がっており、やがては発言権を得るまでになったのではないかということです。

「戦争」がなければ「平等」も得られなかったかのような史観は取るべきではないということです。

 

 自分たちの利益のためにならないような政党にせっせと投票を続けるというのは、戦後に始まったことではないようです。

延々と続けられてきた愚行なのでしょう。