ファシズムと言えばナチスドイツなどを思い出しますが、ファシストが突然やってきていきなり独裁を始めたはずはありません。
最初は温和な表情で、皆が納得した上で次々と進んできたのです。
この本が書かれたのは2004年、小泉内閣が次々と不安な政策を打ち出していた頃でした。
それがどのように統制を強め、監視をしてくるのか、著者の斎藤さんは細かいところからその兆候を指摘し、危険を訴えます。
ちょうどその頃、イラクで反政府組織の人質となった日本人が居ました。
彼らの解放の条件としてイラク派遣の自衛隊の撤退を求められ、人質の家族も政府にそれを願ったところから、国民全体を巻き込んだ騒ぎとなりました。
自己責任論が強く語られ、人質や家族への誹謗中傷が殺到しました。
著者は、そのような誹謗をする人間たちのただならぬ「視点の高さ」を感じます。
まるで自らが政権と同一視されるかのような感覚です。
そこに、超国家主義というものの再生を感じます。
便利ということに異常なまでに執着する現代人は、携帯電話にすべてを任せてしまっているように見えます。
それが情報の収集に使われている可能性もあっても、気にしようとはしません。
簡単で速いように見える自動改札機も、すぐに慣れてスイスイと通り過ぎます。
それに入れるカードにどんどんと情報が蓄積され、それを吸い出される危険性も考えません。
(2004年の話です。現在はその当時とは格段に違う状況になっています)
教育現場での統制の強化、道徳教育と名乗る心理政策など、この当時から激化している政策についてもその危険性を強調されています。
防犯カメラと称する監視カメラの設置が爆発的に進んだのもこの頃からでした。
盛り場というところなどでは、隙間なくカメラで撮影されており、もはや演歌の世界など無くなってしまったかのようです。
監視カメラについての意識調査でも、積極的にそれを受け入れより増設することを求める意見が多いようです。
警察による犯罪捜査のためと言われながら、一般人の監視にも使われる可能性があります。
このような日本はどちらに行こうとしているのか。
著者は「衛星プチ帝国」と称しています。
アメリカの周りを回る衛星国であるのは間違いないのですが、それだけでなく自らも帝国を自称したがっています。しかし、本当の帝国にはなれないので「プチ帝国」、それを合わせて「衛星プチ帝国」という、よく考えればかなり恥ずかしいものになっています。
ファシズムとはなにか、イタリアのウンベルト・エーコ(著者は”現代最高の知性”としています)が著した「永遠のファシズム」の中に、ファシズムの特徴が列挙されています。
多くの特徴があるようですが、「伝統崇拝」、『行動のための行動を崇拝し思考はしない」、「必ず人種差別を伴う」等々を挙げています。
これらの特徴に見られるのが、「社会的ダーウィニズム」が社会の隅々まで行き渡った構図だということです。
現代日本、どうもこの構図にどんどんと近づいているようです。