大谷さんは元新聞記者ですがその後はジャーナリストとして活躍、テレビ出演も多い方です。
藤井さんはフリーライターとしてさまざまな社会現象について書かれています。
お二人が対談で、権力と報道との問題点についてあれこれと語っているのですが、その最中に東日本大震災が起こりました。
福島原発事故の報道を見る内に、政府や東電の伝えることの嘘、それを批判無く流すだけのメディアと言うものの問題点も考えざるを得なくなったそうです。
本書の最初は、「記者クラブ」というものの問題点です。
大谷さんは新聞記者であった経歴から、記者クラブの必要性も分かるのですが、フリーの藤井さんは記者クラブしか入れない会見場所という問題点を主張します。
さらに、警察と報道との関係というものの問題点に議論が移ります。
公式の記者会見以外に、警察の要人に対する取材というものが大きな意味を持っています。
記者と要人との関係により、情報が漏れてくるということも多々あり、さらにそれを警察側も利用して情報操作をするということもあるようです。
裁判員裁判については、お二人ともにかなり批判をしています。
もちろん、制度として裁判への市民参加ということは民主主義成熟の証となるのですが、現状の裁判員制度と言うものはそのようなものになっていません。
立法・行政・司法の三権の中で、司法には市民参加の場が全く存在しませんでした。
一応、検察審査会と言う制度がありますが、これも実態はほとんど機能していません。
ここに風穴を開けたのが裁判員制度なのですが、その運用には大きな疑問があります。
大谷さんの主張では、裁判員裁判をすべきなのは「国家賠償」「公害」「行政訴訟」などであり、現行のように「重大凶悪事件」のみに絞ってしまうのは方向違いということです。
さらに、公判を手早く済まそうとして「公判前整理手続き」なるものを進めていますが、これも完全に公開しなければその内容が分からず、検察の思い通りの整理だけが進む可能性が強いものです。
さらに、再審を民間の意見で決定することの方が重要ということです。
「身勝手な警察、横暴な検察」というのが現状です。
硬骨のジャーナリストとも言うべき大谷さん。彼が読売新聞の記者だったということが不思議なほどです。
記者を辞めてすぐにテレビでコメンテータなどの仕事をするようになったのですが、そうすると「書くのが仕事か、テレビのコメントが仕事か」と批判混じりに聞かれることが多かったそうです。
それについては、「書くだけでは食べていけないのが日本の現状」だそうです。
それだけ、日本のジャーナリズムというものが弱体なのでしょう。