爽風上々のブログ

熊本の片田舎に住むリタイア読書人がその時々の心に触れたものを書き散らしています。読んだ本の感想がメインですが(読書記録)、エネルギー問題、食品問題など、また政治経済・環境問題など興味のあるものには触れていきます。

「島津家の戦争」米窪明美著

薩摩を支配してきた島津家は、鎌倉時代初期に入って以来一度も離れること無く続きました。

その薩摩の島津宗家の四代当主、島津忠宗の六男、資忠が足利将軍家から日向国に所領を与えられたことにより、都城島津家という島津の分家が成立しました。

こちらも、明治に至るまで都城一帯を支配し続けました。

 

島津本家は数度の戦乱で資料も焼失したものの、都城島津家は西南戦争でも戦火を受けることはなく、文書記録も残りました。

都城島津家の前当主島津久厚氏は学習院大学で務めておられ、ちょうどその頃に秘書として著者の米窪さんと出会い、その縁で「都城島津家日誌」を読む機会を得て、その後これを基に本を書く許可を島津氏より貰い、執筆をしたそうです。

 

2004年、都城島津家から都城市に約1万点もの歴史資料が寄贈されました。

その中に「琉球国王宛朝鮮国王国書」なるものが含まれており、大きな論争を引き起こしました。

差出人は朝鮮国王の燕山君、受取人は琉球尚真王、内容は漂着した琉球の船員を送り返すというものでした。

朝鮮と琉球の間の国書がなぜ都城にあるのか、もしかしたら偽物か、模造品かといろいろな説が飛び交いましたが、結局その形式、内容から本物と確認されました。

そして、それが都城にあることが都城島津家が琉球貿易にも深く関わっていたことの現れということでした。

都城島津家は、現在の宮崎県都城市が本拠ですが、戦国時代後期には武功を立てて内之浦から志布志までの一帯を島津宗家より与えられました。

そのために、琉球貿易にも関わるようになり、その関係で朝鮮王国書を手に入れることにもなったようです。

 

秀吉の九州征伐をも辛くも逃れた島津は本領をほとんど安堵され、さらに関が原の戦いで西軍につくも徳川も存続を認めほぼ旧領を領有し続けました。都城も同様でした。

そのためか、領国内の体制も他の藩とは異なり、中世の雰囲気を残すものだったようです。

明治時代になったすぐの調査では、士族は全国平均で人口の約5%というものだったのですが、これが薩摩では25%に達しました。

実に、全国の士族の10人に1人は薩摩に居たのです。

しかも、その中で都城は特に士族が多く、42%という数字でした。半分は士族という状態だったのです。

もちろん、他の藩では士族と農民は完全に区切られ、士族は俸禄を受けるサラリーマンと化していたのですが、島津では戦国時代以前の状態、つまり武士も農地を所有し、平時は自らそれを耕し、戦時には闘うという体制をそのまま引き継いでいたのです。

 

幕末から維新に至る時期にも、都城島津家の人々は鹿児島同様精力的に動きました。

精忠組という、血気にはやる若者たちも都城精忠組として出撃し、倒幕の戦場で戦ったそうです。

 

生麦事件を原因としてイギリスと薩摩の間に薩英戦争が勃発し、鹿児島はあっという間に焼け野原となったものの、イギリス艦隊にもかなりの損害を与えたので、和平となりました。

すると、薩摩は和平の条件として賠償金等は払うものの、イギリスの軍艦を売ってくれということを言い出したそうです。

あまりのことに、イギリスの交渉担当者も唖然としたとか。

 

薩摩を始め倒幕派の諸藩の活躍で、明治維新は成し遂げられました。

しかし、薩摩でも西郷や大久保などごく一部のものが政府に加わったのみで、多くの士族は打ち捨てられたようになってしまいます。

廃藩置県で、従来の領主は一応知藩事として就任をしますが、それもすぐに中央からの官僚に交代させられ、島津の数百年に渡る支配も終わらされます。

しかも、長州や土佐はそれぞれ山口県高知県と一つの大きな県にまとめられましたが、島津支配地は鹿児島、美々津、都城と三分割されてしまいました。これには島津側や家来たちは非常に不満を持ったようです。

 

さらに、秩禄処分で、士族の俸禄はわずかな債券で精算されますが、鹿児島ではそこには他とは大差がある状況がありました。

 

島津家では中世以来の武士と農民の一体化が続いており、江戸時代では他に例を見ない土地の私有制とも言える状況でした。

しかし、秩禄処分により、武士の土地所有は否定されると、薩摩では大きな反発が起きます。

全国各地で起きた士族の反乱が、薩摩では西南戦争にまで拡大するのも士族たちのこの点に関しての不満が非常に強かったからのようです。

 

西南戦争の際、都城薩軍の敗走路に近く政府側が刺激すれば町も無事では済まなかったのですが、なんとか迂回して敗走させました。

 

明治に入っても、都城島津家の当主島津久家は軍人となり、日露戦争にも陸軍で戦場に立ち戦ったようです。

さらに、その子の久厚の代には第2次世界大戦が終わり、都城島津家は土地も失いわずかな山林を残すのみとなりました。

 

江戸時代の殿様の子孫が居るというところはあちこちにありますが、鎌倉時代にさかのぼり領主の家系が続いているというのはすごいところです。

島津という家の持つ意味を再認識できました。

 

島津家の戦争

島津家の戦争