著者の松村さんは自衛隊で作戦幕僚などを歴任、実際に戦闘経験はないでしょうが、戦略というものを仕事にしてきた方です。
以前、現代戦の戦法について書かれた本を読んだことがあり、「これはかなりの珍品だ」という感想を持ったのですが、今度読んだこの本は歴史書としては珍品とは言えないでしょう。
ナポレオンはフランス革命に続くフランスを中心としたヨーロッパの混乱期に、非常に優れた戦術で一時は全ヨーロッパを席巻しました。
しかし、結局は破れてしまったために、その戦術・戦法を自身で書き残すことはありませんでした。
世界的に見ても、日本でも、ナポレオンの伝記を書いたものはあっても戦術・戦法を解析した戦史というものはあまり見られないそうです。
そこで、ナポレオンが関わったすべての戦闘を解析し、後進の参考になればと言う思いでこの本を書かれたということです。
ナポレオンの時代、19世紀のはじめには、兵器と戦術の進歩が急激に進み、それを天才的に上手に活用したナポレオンが数多くの会戦で勝利することとなりました。
フリントロック式の銃剣付きマスケット銃と滑腔カノン砲はほとんど完成の域に達しましたが、回転式弾倉銃はまだ開発途上でした。
戦術では、それまでの騎兵主体の軍編成が、小銃の性能向上により歩兵主体に変わりつつありました。
また、ナポレオンの戦闘としていくつもの「会戦」が有名になっていますが、この「会戦戦略」とも言えるものが、実はナポレオンの戦術の特色でもあったわけです。
彼は会戦において徹底的に敵を撃破しないうちに、戦略的、政治的要地を占領しようとはしませんでした。
小銃のみを装備する軽歩兵という編成は、18世紀頃から主役の座に座りました。
かつては、弓、投石、投槍などを持ち戦闘開始時にはそれらを放ってすぐに横に避けたのですが、小銃を手にすることにより戦闘中常に主力となる部隊となりました。
しかし、その身分は低かったために、規律が悪く命令を守るとはみなされなかったようです。
フランスが彼らを正規軍として扱い、厳しい訓練を施して主力部隊とするのは他国より先んじていました。
プロイセンやイギリスでは保守派からの反対があり、軽歩兵主体の編成とはできなかったという動きがあったのに対し、フランスでは革命以前から軽歩兵が縦の陣形で突撃する戦法が採用されました。
騎兵部隊はかつては花形だったのですが、徐々に重要度を下げていきました。
それでもこの時代まではなんとか存続していたのですが、ナポレオンは騎兵が大砲を牽引し機動力をもたせるということをしました。
これがナポレオン戦争初期には効果的に機能したようです。
しかし、徐々にこの戦法を周辺諸国も真似をし、その差がなくなっていきました。
また、ナポレオンは兵站支援システム改善の名人でした。
当時の軍隊は移動先の住民から糧食の提供を受けるのが当然でしたが、ナポレオンはそれを求めつつも、自らも補給品の調達と輸送を考慮しました。
そのために、当時の常識からは驚くほど速く移動することが可能になりました。
1805年のフランス北部からアウステルリッツに向かう進軍では、20万の軍隊が1日平均20-25kmの速度で5週間移動し続けました。
この兵站支援システムは1812年のロシア侵攻までは十分に機能しました。
しかし、ロシアにおいては道路事情が最悪、ゲリラが活動、さらに住民から糧食を求めようとしても皆貧困で何も持っていなかったと言う悪条件が重なり、補給に失敗しました。
第2章以下は、ナポレオンの戦争すべての詳細な解説がなされています。
関係者の移動、開戦からは略図で図示してあり、わかりやすく書かれています。
名前だけでも知っているというものも少ないのですが、マレンゴ会戦、アウステルリッツの三帝会戦、ワーテルローの戦闘といったところは有名なものでした。
戦闘の結果としてどの程度の兵士が亡くなったかということも書かれていますが、少なくても数千、多い時には数万人が戦死または戦病死しています。
フランスばかりでなく相手国も相当な痛手を被ったことが分かります。
なお、ついでながらエピソードとして、ジョセフィーヌの不倫、ジョセフィーヌを離縁してオーストリア王女マリー・ルイーズと結婚、ポーランド侵攻の際に愛人としたワレフスカ侯爵夫人など、女性関係についても触れています。まあ、戦闘には直接は関係ないでしょうが。
確かに、アレクサンダー大王、ジンギス汗と並び称されるべきなんでしょう。
しかしもう少し上手くやっていればと言う思いがしてきます。